【１８】再動（１）
瑠既が綺を出ようとしていたころ、同じ楓珠大陸で変化は起き始めていた。木々に囲まれた、克主研究所。
恭良たちを見送ってから次の朝を迎えても、普段と変わらぬ光景に忒畝は安堵していた。今日は月に一度の、図書室での定例会。
前には君主代理の充忠がいる。はっきりとした二重を持つ彼は、女子からの人気が高い。その人気は忒畝と二分すると研究所内では囁かれている。愛想のいい忒畝と、愛想笑いをしない充忠。二極化するのは、当然かもしれない。
右には助手の馨民。垂れ目の彼女はやさしく大人しい性格に見られがちだが、思いの外、言いたいことをしっかりと言う。ふたりとも忒畝と長い付き合いであり、親友だ。
ひとつの大きな机に集まっている彼らは、白衣を着用している。机の上には資料とあたたかいアップルティー。仕事中であっても、忒畝の心が安らぐひとときだ。
「じゃあ、充忠。これをお願いね」
忒畝は笑顔だ。しかし、言われた方はおだやかではないようで、
「ちょ……忒畝、最近俺に振るの多くねぇ？」
と苦笑いを浮かべている。
定例会といえど、かしこまらずに気さくな口調で話すのが彼らだ。忒畝は満面の笑顔を浮かべて楽しそうに言う。
「優秀な人を代理で持つと幸せだね」
「よかったわね、充忠。君主が認めてくれてるわよ」
「はい。とても光栄です」
冗談ばかりのやり取りに、忒畝は声を出して笑う。その横で、馨民は淡々と報告業務をする。
「そうだ、今回は特に人事異動はなしね」
「何で？」
充忠は不満の声を上げ、忒畝が理由を告げようとする。
「確かに、充忠の要望通り丞樺さんを酉惟さんと入れ替えをしてもいいと思うけど……」
「酉惟さんは母さんの助手でいいの。『助手は男の人がいい』なんて、充忠はわがまま言わないで」
馨民がざっくりと言葉を遮る。
酉惟は馨民の母、釈来の助手。助手の職に男性が就くのは珍しいが、以前から本人の強い希望──らしい。前君主からの申し送り事項であり、酉惟の職を動かせないと知っているのは忒畝だけだが。
「丞樺さんは、よくできた人でしょ？ 昨年末くらいから充忠の助手に就いてもらったけど……それとも、また助手がいない状態の方がいい？」
忒畝は充忠の意見を仰ぐ。とはいえ、究極の二択を迫っているにすぎない。忒畝のあっけらかんとした物言いに、そこまでの悪意は感じられないが。
「助手がいると助けてもらえることは多いよ。ただ、女の人とふたりきりになるのがなぁ……」
『苦手だ』とは口にできずに、口ごもる。気がありそうなそぶりが見えてしまうと、余計に苦手だとは言えない。
「わかったよ。男の新人が入って、配属先が決まらないってなったら、助手を交代してくれ」
「かわいそう、丞樺ちゃん。あんなに仕事できる人なのにそんな言い方されて」
馨民は無関心そうに資料を見ながら言う。
「気苦労が増えるんだよ」
「贅沢者ね。丞樺ちゃんが充忠なんかに尽くしてくれることに感謝しなさいよ。だいたいね、そんなに女の子に無関心だと妙な噂が立つわよ」
「何だと？」
充忠と馨民がヒートアップし、忒畝は苦笑いする。
「あ～……まぁ、ふたりとも。そのくらいで、ね？」
宥める声に、ふたりは大人しく口を閉じる。ほんわりと上がるアップルティーの湯気が、その場の間を繋ぐ。
「新人を充忠の助手にするのは無理があると思うけれど……よく検討しておきます」
人事の全責任を被り、場を収束させる。
「それでいいかな？」
「君主のご意向に従います」
あくまでも仕事と、充忠は自分に言い聞かせるように言う。忒畝はありがとうと言いい、
「じゃあ、僕は戻るね。あ、そうだ。悠穂が資料を集め終わったら、僕の部屋に戻るように伝えてくれる？」
「うん」
「あいよ」
ふたりの返事に、忒畝はにこりと笑い、数冊の本を抱えて図書室をあとにする。
仕事場に向かって廊下を歩く。ぼんやりと浮かぶのは、父のこと。
父、悠畝は忒畝と同じ年齢で君主になった。自ら望んだわけではなく、強制的に──親子間での自動的な相続だった。
君主になった悠畝は、まず、その制度を廃止した。そこまで君主の立場を嫌がっていた。
──望まないで君主になったなんて信じられないくらい、君主として優秀な人だったな。
忒畝は父に想いを馳せる。先日、克主研究所は六百周年を迎えていた。
──本当は、あの祝辞は父さんがするべきものだった。
何度もそう思ってしまう。
ふと、視線がひとつの窓にとられる。父が好んだ窓だ。この窓からは、四戦獣を封印したと言われる塚が見える。
父が四戦獣の研究を始めたのは、他ならぬ、母の存在があったからだと忒畝は確信している。母は、白緑色の髪とアクアの瞳を持っていた。
ピクン
背中に感じた、凍る気配。──母がいなくなる前から何度も感じた気配だ。物心つくような幼いころから。
忒畝は息苦しさを感じ、恐怖に襲われる。凍る気配の正体を察して。
熱くないのに、汗がじんわりと沸いてくる。死を予感させる感覚。これは、植え付けられたもの。ぶわっと吹き出したのは、冷や汗。
死を想像させる気配であっても、恐怖におびえるわけにはいかない。自ら向かっていかなければならない理由がある。
妹の悠穂を守る。今の姿のまま、人の姿のままでいてほしいと願うなら。救いたいなら──。
「僕が、立ち向かわなくては」
口パクのような、ほとんど聞き取れない声。その呟きを自身に言い聞かせ、意を決する。
──何度も見た。
この気配の正体は知っている。バッと振り返るが、背後には誰もいない。
忒畝は違和感を覚え、思考を巡らせる。──そして、辿り着いた結論は、最悪のものだった。
「まさか……」
祈るような思いで忒畝は来た道を走る。
「充忠、悠穂は来た？」
図書室の定例会をした場所まで戻り、忒畝は問う。充忠はというと、ふしぎそうに忒畝を見る。
「悠穂ちゃんならあのあとすぐ来て、お前のあとを追っていったはずだけど……」
忒畝は抱えていた本を机の上に無造作に置き、両手をつく。嫌な予感は、的中してしまった。
「悠穂が……いなくなったかもしれない」
恐れていた事態。苦渋の表情が浮かぶ。
「忒畝、どういうこと？」
