【16】真実を追う者
翌日、颯唏は鏡と睨み合っていた。昨日と同様にキッチリとした正装に身を包んでいる。髪の毛一本まで気を遣うほど、全身のチェックに余念がない。どこを何度直しても納得できないのか、不満の表情を浮かべている。
腰に剣を着け、マントを羽織る。ふと、時計を見上げ一瞬息が止まる。慌てて分厚い封筒を無造作に取るが、迷う。持っていくか、否か。
けれど、熟考している時間はない。──颯唏は、置いていくことを選んだ。
今日は早朝から慌ただしかった。朝食も疎かに出かける準備をしたせいだ。
思うようにいかない。颯唏は苛立ちを覚える。最後にもう一度見直しのできなかった服装の袖を整え、気持ちを整えようとするが、落ち着かない。
理由が明確なのだから割り切れればいいものを、そうできずにいる。ため息が出る。昨日の帰城した姿でみんなに心配をかけたというのに──日課にしていた姉の部屋へ向かう気にもなれない。
姉の顔を見てしまえば、きっと、立ち止ってしまう。
この数年での変化は、成長というより異変に近いだろう。それは、颯唏自身が自覚していることだ。
無邪気だったころが懐かしい。
「あれ、颯唏?」
颯唏は我に返り、顔を上げる。まったく気づかなかったと振り返る。正面口の近くで轢とすれ違っていた。
思わず苦笑が浮かぶ。
「ごめん、轢兄。俺、これからしばらくは……この時間出かけることになる」
轢が驚いたような顔を浮かべ、颯唏は理由を言えない申し訳なさが沸く。ずっと面倒を見てもらってきたのに、抱えていることを少しでも打ち明けられない。
「帰ってきたら声をかけるね」
せめて轢を安心させられるようにと、できるだけ笑って手を振った。
轢に相談できたら──心のどこかでは、そんな思いもある。元々、甘えん坊だという自覚もあって、全部を打ち明けて甘えられたらとも何度も思った。
だが、轢に背負わせるわけにはいかない。姉にもそうだ。いや、姉には口が裂けても言えないことだ。姉は充分犠牲を払った。だから、知らないままでいてほしい。
内密にして手配した馬車が、きちんと正面口に止まっている。轢が追ってくる気配はない。誰かに見つかる前に、早く乗ってしまわなければ。
颯唏は待たせていた馬車の扉に手をかける。そのとき、
「いけません、颯唏様」
大臣の声だ。
──マズイ。
颯唏は急いで馬車に乗り込む。そして、素早く扉を閉めた。
「颯唏様!」
閉めた扉の外から、大臣の叫び声が響く。
「出して!」
咄嗟に颯唏は指示を出す。一番見つかりたくない人物に見つかってしまった。
馬車が走り出すとき、曇った大臣の声が再び聞こえる。
「貴男も体験したはずです! 体の違和感を!」
追ってきたような大臣の声に颯唏は思わず振り返る。後ろの窓からは、止めようとしたものの止められず、立ち尽くした大臣の姿が見えた。
大臣の姿は遠のき、ちいさくなっていく。声は到底聞こえないのに、『どうして行くのか』と責められている気がした。
鴻嫗城が見えなくなり、道が悪くなった。折り返し地点を過ぎて、涼舞城の跡地に近づいてきたと感じる。目印はない。どんどん景色が寂しくなっていくだけだ。
揺れがひどくなり、音もガタンガタンと鳴るようになって、気が沈んでいく。昨日の今日だ。行けば、琉倚に拒絶されることはわかっている。
馬車が止まり、颯唏は席を立つ。ところがうまく足に力が入らず、足元がおぼつかなくなる。グッと扉の手すりを握り、何とか馬車から降り立った。
御者に心配をされたが、『恥ずかしいところを見られた』と返す。そうされれば、御者は顔を伏せて見送るしかないと見越してのこと。
ガリガリともジャリジャリとも形容しがたい音を耳にしながら右に傾く塔を頼りに歩けば、それは徐々に姿を現し颯唏を拒む。拒まれても、颯唏は気づかないふりをして足を踏み入れる。
煉瓦に囲まれた眩暈の覚えるような道をしばらく行けば、視界が広がった空間には琉倚がいた。──ただし、姿は昨日と一変。詰襟のキッチリとした上着と、スッと足元を隠す稽古着のような左右を分けた衣服。まるで、少年のような格好だ。
「また来たの?」
けれど、声は確かに琉倚で。『また』と言うくらいだから、琉倚で間違えもなさそうで。目を見開いていた颯唏は、グッと自ら意識を切り替えて口を開く。
「言ったはずです。貴女が認めてくれるまで何日でも通い続けます、と」
颯唏はひざまずき、あいさつをしたときと同様に琉倚を見上げ微笑む。その様子に、琉倚は──大袈裟にため息を吐いた。
「しつこい男は嫌われるよ」
「嫌われても」
颯唏には引けない。だから、食らい付くのみ。
しかし、本来はそこまで強くない。強がれはするが、強くはないのだ。つい、視線が落ちてしまう。
「俺には、琉倚姫に協力を乞わないといけないことが……あるのです」
「協力?」
これは、ずるい手立てだ。琉倚が何に興味を持つか、それを理解した上でのこと。
颯唏は奥歯を噛む。卑怯だとわかっているから。
拳を握る。引かないために。
琉倚を再び見上げる。しっかりとした瞳で。
「俺のことは嫌いになれても、父上のことは嫌いになれないはずです。……父上になら、協力してくれますか?」
琉倚が颯唏をまじまじと見る。
沙稀がこの世を去ってから、もう十五年も経っている。疑問だらけになって当然だ。
「どういう……こと?」
固唾を呑むような琉倚に、思わず颯唏は視線を逸らす。筋書き通りすぎて。琉倚はやはり婚約者だった人物のことは、聞き流せない様子だ。
「あの……」
言いたい言葉があふれて渋滞を起こす。想定内のはずだったのに、道筋通りに話せない。
救いたいと、幸せにしたいと、好きだと、だから結婚してほしいと──言ってしまったら、道筋も心も、崩れてしまう。
「話を……聞かせてくれる?」
張り詰めていた琉倚の雰囲気がゆるんだ。
『それでいい』と思っていたはずなのに、ズキリと心に刺さる。琉倚は、颯唏に沙稀の面影を重ねたに違いない。
颯唏は無言のまま視線を伏せる。望んだ通りの道筋になったのに、心が重い。表情さえもコントロールが難しく、重いものに変わる。──こんな顔を琉倚に見せるわけにはいかない。
「続きは、鴻嫗城でないと話せません。実際に、見ていただきたい物もありますので」
颯唏は深々と頭を下げる。
呼吸がしにくいと感じて、土地のせいだと押し流す。
「また、明日も来ます」
立ち上がり、踵を返す。とてもじゃないが、一緒に来てほしいと今の心持ちでは言えない。
紫紺のマントを握り、琉倚の返事を待たずに細い道へと姿を消した。




