★【15】幻影を追う者(1)
土と砂、石が混ざり合う足場の悪いところを歩き続ける。道はない。先を進む大臣だけが道標だ。不安に襲われ、振り返る。馬車が遠くに見える。徒歩でしか進めないところを、それだけ歩いてきた。あれだけ大きく、どこに言っても目印になりそうだった鴻嫗城は見えない。
引き返せない道を選んだ。その事実だけが、颯唏に『進む』と選ばせる。大臣の背は、まだ遠くない。駆け寄ればすぐに追いつきそうだが、この足場の悪さだ。慌てれば、怪我を負いかねない。
一歩踏み出せば、石と石が特有の音を鳴らす。風がない分、心を刺すようなその音は颯唏の耳に張り付いた。
しばらく歩くと、右に傾いた小さな塔が見えてくる。誰かが住んでいるとは思えないほどひっそりとした塔に、颯唏は足が止まりそうになった。
──ここに、何十年も……身を潜めて……。
琉倚の存在を知ったとき、行方は何となく想像が付いていた。僻地で生きるしか選択が残されていないと結論づけるのは容易だったから。けれど、想像を絶したと言っていい。
城が堕ち、他に身を寄せる貴族は少なくない。その中でも鴻嫗城は、その間口を広げ、快く受け入れている。
だが、涼舞城の場合はその限りではなかったのだ。
忠誠の証として仕えていた長男が鴻嫗城で汚名を着せられ、ひどい処刑をされた。──世界に君臨する鴻嫗城を敵に回す行為をした城の者など、受け入れ先はない。
琉倚は──涼舞城出身の唯一生存する者だ。
「颯唏様」
大臣の声に、颯唏は現実へと戻る。
「この先は……人の住むような地ではありません。本来はここも、むやみに近づくような地でもありません。……あいさつを終えたら、すぐに帰城します。よろしいですね?」
「わかった」
颯唏は重く返事を返す。
見ただけでは大臣が言うような土地だとはわからない。体に異常も感じない。だが、傾いた塔が、異様な雰囲気を発しているのだけは──近づくなと本能は警告を鳴らしている。
自らも血を流す覚悟は固めてきた。大臣も琉倚も、傷付けると承知の上で巻き込むと決意した。颯唏には最後の一滴まで血が流れても、達成しなければならないことがある。絞り出して叶うのなら、苦痛に歪めながらでも出し切るだろう。
本能の警告を意識的に落とし、颯唏は傾いた塔へと入る。その直後、急激に体内が熱くなる。表面は赤くもならないのに、体内だけ沸騰するような強弱を繰り返す痛み。息が、早くなる。
──確かに……人の住むような地ではない。
大臣が振り返って颯唏の様子をうかがう。苦しんではいられない。大臣に『戻る』と言われれば、あとがなくなる。
颯唏が虚勢を張り、大臣は見なかったことにしたが、大臣にはバレバレだろう。大臣も、体の異変は感じているはずなのだから。
細い道が続く。壁は煉瓦だが、あの傾きを見たあとでは何ともこころもとない。本来は、平坦であろう床は、短い階段が断続的にあるような歩きにくさだ。これでは、平衡感覚もおかしくなってしまう。
ふと、細道の終わりを告げるように視界は開けてきた。塔の中核のようだ。外観の通り、決して広いとは言えないが、急に開けた空間は実際以上に広く感じる。
この異空間に、ひとりのちいさな姫はいた。
「初めまして」
ちょこんと、その場でドレスの裾を持ち上げ膝を一度軽く曲げる。
身長は颯唏よりも低い。実年齢が虚偽記載ではないかと疑いたくなるほど肌の張りがよく、幼い顔。大きなリラの瞳が颯唏を一直線に見る。
長いリラの髪は、強い癖っ毛だ。縛り上げている前髪も、髪の癖が強いとわかる。涼舞城の者は、代々直毛だと記載にあったはずなのに。
琉倚を一目見ただけで、この場が体に及ぼす影響を見て取れて、颯唏は眩暈を覚える。
颯唏を見続けるその瞳に好意は含んでいない。笑うことを知らないかのようなちいさな唇は警戒からか、下を向いている。
こうして琉倚は、気の遠くなるような年月をここでひとり──数少ない使用人と大臣以外に存在を認められることもなく生きてきたのだろう。颯唏はギュッと胸が締め付けられる。
颯唏は琉倚を利用して傷付けることになると思っていた。けれど、琉倚を『救えないか』と思えた。
足を踏み出す。
琉倚に向かって歩き出したと気づいた大臣が颯唏を止めようとしたが、颯唏は振り払った。
「颯唏様!」
大臣の叫びは颯唏の耳を通り過ぎる。
目的が吹き飛びそうになる。それほどまでに颯唏は琉倚の瞳に落ちた。ただ、盲目になれるほど、颯唏は罪を軽んじてはいない。
「初めまして」
颯唏はひざまずき、満面の笑みであいさつを返す。
琉倚は二歩下がった。警戒を浮かべていた表情は、明らかに怪訝なものに変化している。
きょとんとしたのは颯唏だ。世間的見解では申し分のない血統に、こんな反応をされるとは思ってもいなかった。しかも、これほど露骨に身分まで誇張してきたというのに。
颯唏は立ち上がり、琉倚が下がった二歩分を埋める。そして、
「琉倚姫は、かわいらしい方だね」
と屈み、おだやかに微笑む。すると、琉倚は少し呆然とした。だが、すぐに我を取り戻し、拳を握ると颯唏を見上げて抗議を上げる。
「さ、颯唏くんは失礼だな。こう見えても私は、あなたのお父様よりひとつ年下なだけで……」
琉倚の言葉が途中で消えたのは、颯唏が塞いだからだ。瞳を閉じ、琉倚の唇を文字通り口封じした。
琉倚が抵抗しなかったのは、理解ができなかったのだろう。想定外すぎることが起こると、人間の理解速度は著しく低下する。そこまでを計算してか、琉倚との一定の距離を取り戻した颯唏は満面の笑みを浮かべる。
「はい、存じております。姫」
琉倚は唖然とし、開いた口が塞がっていない。にこにことする颯唏を前に、口をパクパクとする。数秒経ち、ようやく理解をしたのか。琉倚の顔面は一気に紅潮する。
身動きを取るのも困難なほどの混乱を起こす琉倚を前に、颯唏は畳み込むように告げる。
「俺は琉倚姫と婚約しに来たのです」
まっすぐと見つめる颯唏の視線に、琉倚の返答はない。
隙をつくかのように、大臣の言い切る声が割り込む。
「颯唏様、今のはなしです。何も見なかったことにいたしますので、すぐに帰りましょう」
背後からの断言に、颯唏は背を伸ばす。了承の返事を颯唏が返していないのに、大臣は強制的に終わらせようと詰める。
「琉倚、貴女もそれで……いいですね?」
同意を求めるような強要。すばやく何度も首肯する琉倚は、強要されて従っているようには見えない。
だが、颯唏は不服を申し立てるために振り返る。
「嫌だ、俺は琉倚姫と絶対に結婚したい!」
「何を言っているのですか」
即座に前言撤回を求める大臣に対し、颯唏は唇を噛む。まだ、大臣を言いくるめるときではない。
颯唏は再び琉倚と向き合い、琉倚を抱き寄せ大臣に問う。
「正式な方法で婚約が認められないなら、どこまですればいい?」




