【14】捕らえられて
何日間か雨が降り、ようやく太陽がさんさんと輝いた日のこと。大臣は馬車を一台正面口へと手配する。
「お待たせいたしました」
ソファで寛ぎ紅茶を飲んでいた颯唏は、声がかかりカップを静かに置く。日頃は稽古着を身に着けていた颯唏だが、今日はキッチリとした正装だ。腰まであるクロッカスの髪を束ねる髪留めにまで抜かりがない。
大臣が先導し、颯唏が馬車に乗ろうとしたとき、羅凍が姿を現す。
「俺は、お供してはいけない用事ですか?」
振り返った颯唏は、羅凍を見るなり自信ありげに笑う。
「一応俺は剣士だよ? 大臣もいる。それに、姉上が継承されたんだ。とっくに俺の護衛じゃなくて、姉上の護衛でしょ?」
その声は、どこかあどけない。
「そうですが……」
「寂しい?」
「ち、違います」
否定しつつ、図星なのか。珍しく羅凍の頬に赤みが増した。その様子に、颯唏のとなりに立つ大臣が笑う。
「行って参ります。羅凍様がいらっしゃれば、私も安心して外出できます。私が留守の間、よろしくお願いしますね」
おだやかな大臣の声に続き、
「そういうこと」
と、颯唏はからかうような声を出す。楽しそうにヒラヒラと手まで振っている颯唏に、羅凍の眉は下がる。
「かしこまりました。……お気をつけて」
満足そうに笑った颯唏は弾んで馬車に乗り込む。続く大臣も、楽しそうに見えていたのに──馬車が発車する間際、ふたりの表情は一変した。スッと影が落ち、空気が変わる。これから不幸のあった場に向かうかのような。
羅凍は緊迫した空気に包まれる。けれど、止められない。
颯唏が自ら身分を背負って向かうようなときに、行先すら知らない羅凍は立ち入れないのだ。
走り出した馬車を、羅凍は見えなくなるまで佇み見送っていた。
平坦な道を馬車が走る中、ふたりは沈黙を貫いていた。まるで、目的地の光景を想像するだけで言葉を失ったかのように。
ただし、落ち着きを払っている颯唏に対し、大臣は落ち着くのが難しいのだろう。おもむろに毒を吐くかのごとく呟く。
「行先は……知っていますか?」
大臣の問いに、颯唏は遠くを見たまま答える。
「うん。想像はつく」
『そうですか』と、大臣は独り言かのように言う。その姿は落胆していて、観念したかのよう。
颯唏はまぶたを閉じる。──やがて道が悪くなると想像をして。
始まりは、あの鍵を見つけたときだ。颯唏はこれまでの日々が崩れ、記憶の混濁を起こし、錯覚を覚えた。
そこへ、恭良の混濁が拍車をかけた──この二年半ほどのことを思い返せば、そうとしか言えない。
白いレースが装飾された一室で、所有者の異なるクロッカスの髪が交じり合っていた。交じり合うふたりは華奢という言葉が似合いすぎるほどで──とはいえ、一方はまだ幼くちいさいゆえだ。
「恭良」
幼い手は、病で衰弱したような手を求め、重なる。クロッカスの瞳で、愛しい人を映して。
「沙稀……」
声を発した者は焦点の合わない瞳で、か細い手を伸ばす。名を呼ぶ者を確かめるように。
『沙稀』と呼ばれていたのは、いつからだったか。口調も、仕草も、表情も変化する様は、記憶が混濁していると思い込んでいたと改めるには、充分すぎる時間が経過していた。
視界に頼ろうとしないその手を、幼い手はつかみ己の頬に当て体温で存在を伝える。──けれど、もう一方の手に握られている物を見、二重の存在否定に耐えられなくなる。
「俺が『沙稀』だと、いつになったら信じてくれるの?」
怒りに任せ、決して肌身離さないそれに手を伸ばす。すると、阻止するかのような回答が届く。
「信じてる」
「本当に?」
「うん」
映すクロッカスの瞳は伏せたまま、人形のように変化がない。
伏せた瞳には、無表情のまま笑えずにいる少年が映っていた。
微かに視界に入る赤いリボン。赤は、彼女の血のように長いリラの髪をきれいに束ねている。リボンが束ねる反対側を、彼女が持ち主と言わんばかりに握り締めて。
衣服を身から離すことも、肌を合わせることも厭わない彼女が、唯一手離せない物。
彼の、最も嫌いな物だ。
彼が望んでも届かない、遠い色。鮮やかに艶めくリラが、クロッカスの色彩を持つ彼を苦しめる。
「愛しているわ、沙稀」
彼女が毒を注ぐから、
「俺もだよ。恭良」
彼は罪を重ね続けた。
薄い層は重なり続けて、十にも百にもなり、数さえわからなくなった。
大金とともにあったメモを見て、知らない意識を己のものと自覚してしまっていた。物心ついたころから母とふたりきりになると『沙稀』と呼ばれたのだから、受け入れる方が自然に思えていた。
流れてきた意識は一緒にいたいと、そばにいたいと願っていた。そして、誰にも気づかれないように、やりかけていたことがあったことを思い出させた。
子どもは母の愛を求めるが、颯唏は子どもという立場を自ら捨てる。流れてきた意識を受け入れ、混濁する母も受け入れることを選んだ。
そうして、恭良が意識を落とす前日も、翌日起こることを知らずともに過ごす。
けれど、この日は『愛している』と囁く彼女に、我慢がならなくなった。握って離さないリラの髪の束が目障りで仕方ない。
ようやく体も繋がるようになって、心も体もひとつになれたと喜びであふれると想像していたのに、何度愛しさを伝えても──伝えれば伝えるほど、存在感を主張する赤いリボンでキッチリ結ばれた物が邪魔をする。だから、そればかりを愛する彼女の手を、強引にふたりの間に移動させた。
「じゃあ、これは何?」
悔しさがあふれ出る。
彼女は大きく顔を歪めて、強く握る手に必死で抵抗した。
「これは……また沙稀に会うために必要で……」
懇願するような瞳が、ようやく彼を映す。──それが、より彼を苛立たせる。
「俺が『沙稀』なら、もう、要らないよね?」
彼女の右手を、やわらかいベッドの上に押し付ける。弱っている手からは力が抜け、愛しく握られていた物がハラリとばらけた。
「駄目」
ちいさな声が力なくもれ、力では敵わないと彼女が観念すると思いきや──彼女は同じ言葉をヒステリックに繰り返した。
まるで呪われているかのような現象に彼が背筋を凍らせていると、彼女は再びそれを握り、守るようにうつ伏せになる。
彼は容赦なく髪の束を奪おうとしたが、彼女が震えていることに気づき、手を伸ばすのをやめた。
「ごめん」
『沙稀でない』と言われることを恐れた。そうして彼女に接してきた彼にとっては、その否定だけは聞くに堪えない。
しかし、彼女はそれどころではなかったのだろう。全身全霊で大事な物を守りながら、彼が恐れる言葉と同義ととれる言葉を、彼に投げ付けた。
「私……本当の名前を知らないの。だから、これがないと……もう二度と会えないの」
彼女はそのまま泣き伏せた。
颯唏は恭良の部屋を出、渡り廊下に行き月を仰ぐ。
──俺を……産まなければよかったんだ。
『そんなことない』と周囲が言った言葉が浮かぶ。
──そうでなければ、母上は床に伏せることなんて……。
否定を繰り返す。
命さえ残ったものの、恭良が出産で失った代償が大きかったのは事実。
──戻りたい。……母上といると、『戻りたい』とばかり願う……。
『母』だと思いながら、愛しく思った人。いくら母に呼ばれる名を受け入れ、そう見合うように振舞っても、根底は覆せない。
呼ばれる名を受け入れなければ、自己を否定されているようで苦しかった。己を見てほしいと願わずにはいられなかった。
けれど、受け入れても変わらなかった。『別人』にはなれないと、思い知らされた。罪を重ねたと自覚した分、苦しみも増えた。
どうしたらよかったのか、颯唏には答えを出せない。出せないからこそ、なかったことにしてしまいたいと願っているとも、まだ、このときは気づけなかった。
母が意識を落とし、命も尽き、肩の荷が降りた。しばらくして、『個』に戻っても許されるかとも思えた。
ただ、調べて知ったことは、想像以上に颯唏の抱えた罪を重くした。
『個』に戻るには、その罪を背負い、生きていかなくてはならない。
颯唏はまぶたを開ける。
馬車は想像以上に悪い道を走り続けた。乗ってから二時間ほど経過しただろうか。ようやく、目的に到着する。
涼舞城の跡地だ。さらし者のように、数十年経った今でさえ、無残な姿を残している。
大臣に続き馬車から降りた颯唏は、焼き付けるように惨たらしい光景を見つめる。
「こちらです」
颯唏が大臣の方を見ると、涼舞城の跡地とは反対方向に歩き始めた。




