【12】現実と夢の狭間(1)
轢たちを見送った颯唏は、羅凍に声をかけて稽古場へと向かう。何も変わらないように振る舞い過ごしたが、颯唏はどうしても轢がいないと実感せざるを得ない。昼食はいつも轢と食べているせいだ。
羅凍はそれに気づいたのだろう。
「ご一緒してもいいですか?」
気遣って声をかけてくれたのだろうが、意地を張ってしまった。悪い癖だ。
結局、颯唏はひとりでシェフを訪ね、サンドイッチを用意してもらうことにした。中庭で花々に囲まれながら食べれば、寂しくはない。
そうして何気ない顔で午後の稽古に顔を出し、一日を終える。
「今日は何だか疲れましたね。マッサージが必要であれば、何時でも呼んでください」
颯唏を部屋まで送った羅凍は、わざわざそんな一言を残した。
──気遣ってくれている。
重荷ではない気遣いをする羅凍がいてくれてよかったと颯唏は思う。気持ちを無下にしている罪悪感はあるが、羅凍が気にかけてくれなければ、また数年前のようにいたずらを始めていたかもしれない。
自室に入った颯唏は大人しく寝る準備をする。今頃は轢も、就寝しようとしているかもしれない。まだ、別の大陸に着かず、船の中で──。
「どうしてみんな……遠くに行っちゃうんだろう……」
梛懦乙大陸から出たことのない颯唏には、途方のない距離に感じた。轢も梛懦乙大陸を出たのは初めてのはずで、けれど、一歩も二歩も轢が先を歩いているように感じる。
昼間、強がった付けが回ってきた。無性に寂しい。
鼻の奥にツンとした軽い痛みが走る。目にじんわりとした熱と重みを感じる。声を殺し、口で何とか呼吸をする。
このままひとりではいられない。
颯唏はどうにか涙を止めようと、目元を拭う。昼食のときに見た花々を思い出して、必死に呼吸を整え、顔を洗う。
そうして泣いた形跡を消し、ひっそりと自室を出た。
夜とはいえ、深夜ではない。城内は明るく、寝間着で出てきたのを恥ずかしく思いながら歩く。親族の領域内を多く辿っていけば、まず誰とも出会わないはずだ。そう気づいて、フンと鼻を鳴らして強がる。
絨毯の色が紫紺から赤に変わる廊下の丁字路で、颯唏はこっそり顔をのぞかせ駆け出す。急ぐようにノックしたのは、大臣の部屋。
一方、慌ただしいノック音を耳にした大臣は、一度、時刻を確認する。訪問者に心当たりはない。深夜でないにしても、大臣はきちんと腰の剣を確認して気を張りつつ扉を開ける。
スルリと室内に飛び込んでくる、ちいさな人影。誰かと認識し、大臣はふうと気が抜けた。
「颯唏様でしたか」
どうしたのかと訊ねれば、おずおずと颯唏は大臣の耳を疑うかのようなことを言った。
「あのさ、……に……たいんだけど……駄目?」
我が儘に振舞う颯唏が、珍しく大臣からの了承をほしがっている。その様子が『颯唏』とは一致せず、大臣の脳は『誰』かと検索を始める。
容姿だけなら、颯唏は父の沙稀によく似ている。だが、性格は似ても似つかない部分ばかりだ。
これまで颯唏が父を恋しがることはなく、これからも颯唏は言わないのだろうと大臣は思っていて──単純な言葉を颯唏は言ったのに、理解ができなかった。
父を恋しがる姿に、沙稀が重なる。だが、クロッカスの長い髪が『別人だ』と大臣に告げていた。
それに颯唏の髪も長いといっても、沙稀ほどではない。颯唏の後ろ髪はせいぜい胸元。前髪は頬には届いていない。
大臣は『颯唏』だと再確認し、返答する。
「構いません。ご案内いたします」
大臣は微笑んで立ち上がる。すると、颯唏はうつむき、呟く。
「父上は……」
何かを言おうとしてやめた様子に、大臣は颯唏の前にしゃがむ。
「沙稀様の使用していた部屋へ行くのが、怖いですか? もし、勝手に颯唏様が入ったとしても、沙稀様は怒らないと思います」
大臣がやさしく声をかけても、颯唏は口を閉ざしたまま。表情も晴れない。
「誰よりも願っていたと思いますよ、沙稀様は。颯唏様にお会いしたかったことでしょう」
突然、ボロボロと颯唏は涙をこぼす。
「『颯唏』というお名前は、ずっと決めていらしたようだったと……恭良様から伺ったことがありますから……」
「うん……うん……」
泣きじゃくる颯唏を、大臣はやさしく包み込んだ。
颯唏の涙が落ち着いたころ、大臣は沙稀の使用していた部屋へと案内する。道を覚えようとする様子は颯唏にはない。場所は、知っているのだろう。
「では、何かあれば呼んでくださいね。すぐに来ますから」
開錠した大臣はそう言って颯唏に鍵を渡す。颯唏が大臣を見上げると、大臣はやわらかい笑みを浮かべた。
「その鍵は、颯唏様が持っていてください。私は予備の鍵を持っていますから大丈夫です」
コクリと颯唏がうなずくと、大臣は静かに来た道を戻っていった。
ひとりになった颯唏は、ゆっくりと足を踏み入れる。現実と夢の狭間かのように周囲を見渡す。
城内と同じくクリーム色の壁。見上げれば細やかな彫刻による凹凸がある。部屋の造りは颯唏の部屋と似ているのに、何年も使用されていない部屋はシンと静まり返っている気がした。
父が亡くなってから十年近くが経つというのに、室内には埃ひとつない。きれいな部屋は、父が大臣にとっても大切な存在だった証なのだろう。
ちいさな本棚の上には写真が二枚飾られている。一枚には颯唏と同じくらいの少年がふたり、もう一枚には女性がひとり。
更に足を進めるが剣はなく、衣服もさほど多くない。剣は亡くなってから宝物庫に移動されたとしても、この部屋で父が生活していた形跡が感じられない。
数人が座れるほどのダイニングテーブルの奥に、部屋に似つかわしくないアイボリーのラグを見つけ近づく。そこには剣の手入れ用品がきれいに置いてあり、颯唏はラグにちょこんと座り、眺める。
ようやく、本当にこの部屋が父の部屋だという認識がじんわりと湧き、颯唏はまじまじと見つめた。
結局、父が愛用していたと思われる道具に颯唏は触れられず、立ち上がる。ダイニングテーブルの横を通り過ぎ、いよいよ奥の寝室へと辿り着く。サイドテーブルには挙式のときであろう写真と、ちいさなころの姉が両親と映っている写真があった。
大きなベッドの前に立ち、おそるおそる布団に手を伸ばす。
──父上が……ここで眠っていたときも……あった、んだよな……。
つかんだ布団を捲る。そうして、寂しさを包んでもらうようかのように、頭から入っていった。
──父上にお会いしたいな。
どんな人物だったのかを想像する。姉や伯父、大臣たちの言葉を思い出し、父の写真を思い浮かべ、声を想像した。
やがて、颯唏は眠りに落ちた。
それから約二年間、颯唏は度々父の部屋を訪れ眠りに落ちるようになった。
ある日のこと、庾月が一度帰城すると大臣から聞く。颯唏はその日を今か今かと首をして長く待つ。
ようやくその日を迎え、颯唏は喜びで羽が生えたかのように正面口で姉を出迎えに向かう。ソワソワした様子を伯父に注意され気分を害したが、姉の姿を見て驚きに包まれる。




