【8】一途な想い
羅凍に付き添われた颯唏は、絨毯の色が変わる手前で立ち止まる。
「ここまででいい」
颯唏の足元を見て、羅凍はその意味を悟る。親族、もしくはそれに近しい者しか入ってはいけない区域だと。
「かしこまりました」
羅凍は一歩下がり、一礼をして来た道を戻っていく。颯唏はその様子をしばらく横目で見、足を踏み出す。
そうして数メートル歩き、母の部屋の手前で左折した。
颯唏は、母のもとへは行かなかった。紫紺の絨毯を無駄に歩いて時間を稼ぎ、中庭へと向かう。
遠くに、庾月が見えた。
となりにいる男の黒い髪の毛は、羅凍の髪の毛のように美しくない。瑠既を『父』と言い表したが、クロッカスの色彩を持っているわけでもない。
笑顔の庾月のとなりにいる人物が轢だったらと、恨めしい。どうして、轢ではないのだろう。疑問が悲しみに変わっていく。
轢だったのなら、鴻嫗城を継ぐ姉の夫として、王として、申し分ないとずっと思っていた。想像は理想になっていたと気づく。現実を幻想であればいいと見つめながら。
それでも、庾月は幸せそうだ。終始笑顔を咲かせ、不釣り合いだと颯唏が見ている人物を、愛おしそうに見つめている。
颯唏には、どこがいいのかさっぱりわからない。弱々しそうに見え、自信なさそうに見え、一ミリも仲良くできそうにない。
項垂れそうになる。
冷たくあしらえば、姉が悲しむのだろう。姉が好きだからこそ、悲しませたくないからこそ、感情の矛盾を抱える。
──人を好きになるって、どういうことなんだろう。
姉も轢も大好きだが、姉の表情を見ていると、颯唏が抱く『好き』とは違う気がする。けれど、いくら考えたところで、九歳の颯唏にはわからない感情だ。
──結婚は仕来り上、感情だけでできるものではない。だから、結婚とは別なのかもしれない。そうだ、この人物と結婚するわけでもない。
颯唏はそう割り切ろうと、その場を離れた。
一夜明け、母と大臣、瑠既と誄、それにいとこたちまでもが集まった中、颯唏の心に嵐が吹き荒れる。
朝食どころではない。
『婚約』という言葉だけがはっきりと耳に入ってきて、あとは夢でも見ているかのよう。言葉がまったく頭に入ってこない。
瑠既が庾月の父変わりのように、相手側とも庾月とも大臣とも話しをしている。留とは別に、知らない恰幅のいい男がひとりいる。留の親族であろうその恰幅のいい男は、瑠既と親しげだ。瑠既が楽しそうに笑っている。こんな笑顔は初めて見た。
母は最初に話したきり、黙々と食べている。誄はなぜか微笑ましく見守っている。いとこたちは──席が一番遠い轢の様子はわからない。ただ、いとこの女性陣たちは、どこかはしゃいでいるようにも見える。
颯唏はひっそりと席を立つ。そうして、こっそりと母に耳打ちした。
食事を終えたら、誰かが颯唏と恭良がいないと騒ぐだろうか。それとも、朝食の席に同席しない羅凍が気づくだろうか。
羅凍は騒がないだろう。
要領がいいと言うよりも、知恵が働いてごまかすのがうまい。立ち回りは悪い。保身を考えていない。身分が上の者の望みを優先するところがある。ごまかしが嘘だとバレたら、羅凍の立場が悪くなることばかりだ。見ている方がハラハラする。
──だから、なるべく早くに戻らなきゃ。
ゆったりと歩く母に手を引かれながら、颯唏が見上げれば視界にあるクロッカスの色彩に安堵する。
中庭に到着し、ストンと座る母のドレスにしがみ付く。
「母上、どうして姉上はお嫁に行かれるのですか」
「だって、庾月は女の子ですもの」
颯唏よりもはるかにちいさい花たちが、『おかしい』と笑うようにユラユラと揺れた。
ムッとした颯唏は母にもたれていた上体を起こし、抗議するように言う。
「姉上は、鴻嫗城の跡継ぎのはずです! それならば……婿を取るものだと思っていました。姉上がずっと鴻嫗城にいてくださると思っていたからこそ、俺は……」
二年前、鴻嫗城を出ることを黙認したのに──と、涙ぐむ。
颯唏の背に手がまわり、グッと引き寄せられる。
母に抱き締められ、『いい子』だと言われるかのように頭をなでられる。
颯唏は『いい子』である自信がない。二年前まではいたずらをして回ったし、色々と庇ってくれているのであろう伯父に『ありがとう』の一言も言えていない。何より、嫉妬してばかりだ。
「母上、母上は……ずっとそばにいてください」
ギュウッと母にしがみ付く。
「そうね、私はずっと貴男のそばにいるわ」
ドキリとする。
力が抜けた。
──また、母上が混濁している……。
おそるおそる離れる。でも、母に気づかれてはいけない。そんな気がずっとしている。
「どうしたの?」
「ううん、何でもない」
母の手をギュッと握る。
母が混濁する原因を颯唏は知っている。母が肌身離さないモノのせい。このモノのせいで、颯唏は途端に母が怖くなる。子どもらしく、いられなくなる。
姉は知らないのだろう。伯父も大臣も、恐らくは。
大臣は諦めている。伯父は狂ったと例える。
姉は、父が生きていたころのようだと言う。確かに、母と姉と三人でいると、父は生きていて城内のどこかにいるかのように話す。
ドクリドクリと鼓動が呼吸を苦しくして、颯唏は母が怖くなる。姉はその様子に気づいたのだろう。三人では会わないようにしようと言った。それきり、母は『父が生きていて』『城内のどこかにいる』ようには話さなくなった。だが──。
颯唏はたまに、父が城内のどこかで生きているのではないかと思う。だから、墓参りには行かない。
けれど、それはないと母が肌身離さないモノが証明する。きっと、今も母の胸元にあるのだ。長い、リラの色の髪の毛の束が。
颯唏は母に『どんな父だったのか』と聞いたことはない。母の中では、父は生きている。たとえ、時折『颯唏』を『沙稀』だと、混濁することがあっても。
父が死去して九年だと聞いている。
九年経っても、母は一途に父を想い、その死を受け入れられないのだ。どうしたら母を、癒せるのかがわからない。
罪の意識がある。
母は、父がこの世を去るときにそばにいられなかった。そのとき、母は分娩室にいた。死因を大臣に訊ねたとき、その前から長い間、父の意識はなかったと言っていた。母が父を見送れなかったのは、颯唏のせいではないと言った。
けれど、ずっと消えない。
もし、父の死の間際に母が立ち合えていたのなら、母は時間がかかっても受け入れられたのではないかと、颯唏は自身を責めずにはいられない。
やさしい日差しと花々に囲まれ、母に抱き締められていても、颯唏の心は晴れなかった。
しばらくして、母をエスコートするように部屋まで送り、一息つく。浮かれる足取りで笑みをこぼす母は、少女のようだったと颯唏は思い返す。
稽古場に足を運べば、颯唏の姿を見つけた羅凍が、にこりと笑みを投げてきた。案の定、颯唏の予感は当たっていたらしい。
羅凍のごまかしが嘘とバレる前に戻れてよかったと稽古を始める。
颯唏が聞かなくとも、父の話をしてくれる人は何人もいた。父の幼少期からの教育係だったという大臣、いとこの轢、それに、なぜか護衛の羅凍。
何より、同じ子ども立場で話してくれた姉は、颯唏にとって大きな存在だった。
そんな姉が『嫁ぐ』など、颯唏にとっては身の引き裂かれる思いだ。次第に体が動かなくなる。
──稽古に身が入らないなんて。
昨日のことを思い出し、身震いする。轢に怒られると。
「颯唏様」
低音の通る声が鼓膜を震わせた。顔を上げれば、一段と輝かしい整った笑顔が向けられている。
「今日は、本でも読みますか? そうだ、絵本童話はどうでしょう? 俺、一度だけ見たことがあるんですよ」
「絵本童話……」
颯唏様はご存じですか? と続ける羅凍に、言葉が詰まる。颯唏も見たことはある。あれは、いつだったか。
けれど、絵本童話は母の所有物で、落ち着いて寝たであろう母の部屋にわざわざ行きたいとは思わない。
「知っている……。ただ、絵本童話はまた今度にしようよ。今日は……そうだな、モンブランが食べたいな!」
「では、そうしましょう」
羅凍といると颯唏は安心する。危ういこともするが、父の死を、きちんと受け止めている大人だから。
──どうやって乗り越えたんだろう。
産まれたときから父がいないのに、颯唏にもまだ父の死を受け入れられていない。
まるで食通かのように、モンブランについて話を弾ませる羅凍に、颯唏は『一緒に食べよう』と友達のように誘った。




