【７】父子
「颯唏……颯唏！」
轢の声に颯唏は我に返る。爽やかな風は心地いい。芝生は青々としていて、緑も生き生きとしている。数十メートル先、左手側には高い塀、右手側には鴻嫗城。背面には正門へと続く石畳が敷き詰められている。
現在地はしっかりと意識できるのに、現状を把握できない。目の前にいる轢の不機嫌な表情が飛び込んできて、颯唏は動揺し頭が真っ白になった。
「もし、これが実戦だったら……颯唏の命はもうないよ」
「ご、ごめん、轢兄……」
『そうなっていたら、謝っても生き返れないけどね』と、温厚な轢がいつになく刺々しい。
剣を降ろす轢も落ち着かないのだろう。颯唏が上の空のように。
空気までも刺々しくなりそうなところへ、芝生の上を足早に歩く音が聞こえてくる。そのザッザッという音に被さる、低音の通る声。
「今日はこの辺りでお開きにしましょう」
ふたりの間に割って入ってきたのは、羅凍だ。
『ね？』と青年になった轢と、少年の階段を上り始めている颯唏に、漆黒の瞳をつぶして微笑む。
麗しさを前にして轢は罰が悪そうに、颯唏は見とれながら了承をする。
「今日は戻ります」
剣を鞘に収め一礼をする轢に、名残惜しそうに颯唏が問う。
「え、轢兄帰っちゃうの？」
「今日は……戻るよ」
背を向けたまま言い、轢は歩き出す。
この二年間のうち片手で数えられるほどしか帰ってきていない庾月が、久しぶりに帰城すると轢も知っているはずだ。それに、あれから初めて一週間の滞在だとも聞いているのに。
口をへの字にして轢の背を見つめる颯唏に、
「お出迎えに備えましょう」
と、目元にかかる漆黒の髪を揺らし羅凍が言う。
どことなく寂しげに颯唏が首肯したのを確認し、羅凍は鴻嫗城へと歩く。
颯唏は羅凍に付いていくように、轢とは別方向に歩き始めた。
身支度を整え正面口に着いたころ、からかうような声が風に乗り颯唏の頭をつつく。
「やんちゃは落ち着いたか」
視線を上げ、颯唏は振り向く。
両側に高々と構築されたクリーム色の壁に、大理石の床。奥へと続いていく赤紫の絨毯。その中央をしっかりと背筋を伸ばし、程よく肩の力を抜いて歩いてくる姿を見、颯唏はつくづく思う。鴻嫗城の出身者だな、と。
普段よりもキッチリとした服装は、正しく最高位の城の出身者と見惚れるほど。見劣りしないというか、何でも着こなしてしまうというか。恐らくどんな服に身を包んでも、どこか固く、どこか優雅な雰囲気をまとうのだろう。滲み出る高貴な雰囲気は、まだまだ颯唏には醸せない。
颯唏は嫉妬から頬を膨らませ、正面に向き直る。
「おやおや、すっかり男嫌いになったか？」
「違うもん」
反抗するような態度を露骨に出し、颯唏は即答する。
「どうして伯父上がわざわざ？」
「庾月に呼ばれた」
「姉上が？」
いつの間にかとなりに並んでいる瑠既を颯唏は見上げる。そうして、父変わりかと、安易に結論を出す。
庾月が恋をしている相手は、他の大陸の者だと颯唏は聞いている。それに、貴族ではない者だとも。
感情は複雑だ。
姉に幸せになってほしいが、聞く限り姉に相応しい人物とは到底思えない。ただ、姉を取られている悔しさよりも、これから会える楽しみの方が大きい。
「早く……会いたいなぁ」
「お前はマザコンなのか、シスコンなのか……どっちだよ」
「違っ！」
瑠既の冗談に一気に赤面する。反論しようとしたのも束の間、鈴の音のような凛とした透き通る声が響く。
「お久しぶりです、伯父様」
懐かしい声に颯唏の思考は飛ぶ。
無意識で向けた視線の先には、輝きを放っているかのような美しい笑み。誇らしげに広がる、肘ほどの長さのストレートなクロッカスの髪の毛。鴻嫗城の姫とは言いがたい身なりだが、間違えなく待ちわびた姉の庾月だ。
「姉上！」
颯唏は一目散に庾月へと駆け寄る。
「お帰りなさいっ！」
「大きくなったわね」
腰を落とし、庾月は颯唏を受け止める。そして、後方にいる人物に颯唏を弟だと紹介し、颯唏にその人物を大切な人だと紹介する。
ぎこちないあいさつをふたりが交わしている一方で、瑠既は庾月の後方にいる人物をジッと見、目を疑う。
黒く短い髪の毛と、丸っこい瞳。その瞳は忘れられない人と酷似している。
「留？」
「父……ちゃん……」
名を呼ばれた方も驚きを隠せないようだ。戸惑いがあふれ出ている。
颯唏には話が見えない。疑問符が浮かぶ颯唏をよそに、
「まあ！」
と、庾月はうれしそうに微笑み、立ち上がる。瑠既と留が面識あることを祝福──と表現してもいいほどに喜んでいる。
──姉上……幸せそう……。
大好きな姉の笑顔を見られてうれしいはずなのに、なぜか颯唏の心はギュウッと締め付けられる。
「まさか、こんなことが……」
瑠既は、何年も会えなかった留を目の前にし、感極まっていた。
「庾月……ありがとうな」
様々な言葉が浮かんだが、思いを凝縮して礼だけを言う。
庾月は事情を知らないものの、満面の笑みだ。
「私が幸せなのは、伯父様のお蔭でもあるんです」
時折、庾月は不可思議なことを言うと瑠既は思う。だが、それが庾月らしいとも思い、瑠既は微笑んだ。
「留」
瑠既が声をかけると、留の背筋がピッと伸びる。
「今日は鴻嫗城に泊まるのか？」
「う、うん……」
「今日は一緒にゆっくりお散歩をしようと思っているんです」
庾月が留の左手を両手でキュッと握る。言葉を誤魔化しているが、今日は主要な通りだけでも案内をするのだろう。最低限、鴻嫗城内をひとりで歩けるように。
「そうか」
沙稀から造りを教わった庾月が案内するなら安心だと瑠既はサラリと返答し、『またな』と留の肩を軽く叩いて城内へと消えていく。
鐙鷃城へと戻っていくのであろう瑠既の背を、羅凍は見送る。『ちょっとお散歩してくるわね』と庾月は留を引っ張る。颯唏と羅凍に手を振り、瑠既と同様、鴻嫗城へと姿を消していった。
「颯唏様」
羅凍の呼びかけに、また呆然としていたと颯唏は気づく。見上げれば漆黒の前髪は垂れ、宝石のように美しい瞳が細くなり見えなくなる。
「たまには、ゆっくり休むことも大事ですが……稽古をするならお付き合いしますよ」
羅凍が稽古をすると申し出るのは珍しい。颯唏は息を呑む。
「それとも、ティータイムにしますか？」
『ケーキを頼めば、シェフが腕を振るってくれるでしょう』と続ける羅凍に、颯唏は気が抜ける。
「いい……母上の様子を見てくる」
歩き出す颯唏に、
「では、お送りします」
と羅凍は付いてくる。『扉が見えるまでにしておきますから』と、颯唏の心を読むかのような言葉は添えられた。
鐙鷃城に帰城したかと思われていた瑠既は、まだ鴻嫗城にいた。向かった先は、大臣の部屋。
「知っていたんだろ、庾月の相手」
部屋に入るなり瑠既はポツリと言う。
「駄目だったか？」
返ってきた声に、瑠既はドキリとして顔を上げた。目を丸くする瑠既を見て、大臣は笑いをこらえている。
「よお」
「叔さん……」
「ちょうど、瑠既様の話をしていたんですよ」
叔と向かい合って座っていた大臣は立ち上がり、瑠既に着席を勧める。
「お茶を入れてきますね」
席を外すのは、大臣なりの気遣いだろう。
「で、駄目だったのか？ 俺も驚いたよ。あのふたり、いとこだっていうじゃねぇか」
「駄目じゃ……ないよ」
叔の斜め向かいに瑠既は座る。
以前、叔が鴻嫗城に来たときのことを思い出し、瑠既は叔を直視できなくなる。
数年前に一度会ったときもそうだ。瑠既は叔を直視できなかった。
あれから、何度行きたいと思っても足を運ばなかった。
会いたくても会えなかった。
もう、二度と会えないと思っていた。
だが、叔は数年前に会ったときも、今も、何もなかったかのように声をかけてくれる。だからこそ、叔と一緒に住んでいたころに戻ったような気にもなってしまう。
『身の丈に合わない場所ってのは、疲れるな』
鴻嫗城に帰城したときは、本音であったのに。
──いつから俺、慣れたんだろう。
生家が鴻嫗城の瑠既にとって、現状のようになったのは、おかしなことではない。
けれど、それが余計に叔を遠い存在に感じ、気後れしてしまう。
「驚いたよ。双子の弟がいたなんてな。……お前にとっては、大事な存在だったんだな」
悲しく笑って叔は言う。
瑠既は改めて叔のやさしさを感じる。叔にとっての第一は、いつも叔自身ではない。
だから、瑠既の警戒心はゼロになる。悲しみに耐え、無理に笑うせいで表情が不自然に歪んだ。
「叔さんには、会ってほしかった」
