★【5】誓い──君の名を(1)
ピタリと足を止めた庾月は周囲を見渡す。目にとまったのは、街の入口とも出口とも言える付近にある、ふしぎな家屋。
「うん! じぃちゃん、行ってきます!」
一軒家とも商店とも言い難い家屋から出てきたのは、短髪の黒髪の青年。身なりは貴族のそれとは程遠い。別次元に住む成人近いだろう彼を見て、庾月の胸はザワザワと騒ぐ。
──あれは、お父様から……名付けについて鴻嫗城の掟を聞いていたときに……。
父は沙稀。双子の兄は瑠既。ふたりの母は紗如。名の最後に『き』を付けるのが鴻嫗城の掟のひとつだと、庾月は父から聞いた。
そのときに、『例外』と聞いた名が、留。
ザワザワと、更に胸が騒がしくなる。
その名を初めて聞いたときから、庾月はどこかザラザラとした感覚を覚えた。親愛を込めて留妃姫と呼ばれていたと聞いて、尚更。
どうしてそこまで引っかかったのかは、わからない。ただ、思い出す度になぜかズキズキとする名だった。忘れてはいけない名のような気がしていた。
庾月は青年へと向かって走り出す。
「ねぇ! 貴男……留と……留と言うの?」
青年は驚いたのか。振り向きざまに後退る。
「え……あ、うん……」
真っ黒で丸い瞳が庾月を映す。彼は戸惑っているのに、庾月は飛び上がるほどに感激した。こんなに心が躍るのは、父と走り回っていた幼少期以来だ。
「そう、貴男が『留』なのね! ……あ、こ、ここは、どんなお店なの?」
「宿屋……だけど……」
「今晩、二部屋空いているかしら?」
庾月はにっこりと微笑む。一方の留は何度か瞬きをして、『客』と脳内処理をやっとしたのだろう。慌てたように態度を接客用へと改めた。
そんな様子を、羅凍は遠くから見守っていた。
庾月と留の話が落ち着いたころ、羅凍は近づく。そうして、買い物に行ったであろう留を陰ながら見送っている庾月に声をかける。
「行きましょう」
「今日はここに泊まるわよ」
会話が噛み合っていないと羅凍は言わず、克主研究所に泊まることが通例だとも言わず、了承の返事をして姫を公務へと戻らせる。
羅凍は庾月の足元に気を配りながら克主研究所へと導く。そうして、出迎えた馨民と充忠に、庾月は深々とあいさつし、これまでの礼を告げる。
逆に充忠が君主不在を詫びる。鴻嫗城の姫という立場に気を遣っているのだろう。
羅凍は庾月から一歩下がっていたが、馨民とも充忠とも目が合った気がした。だが、どちらも気づかぬふりをしたのか。『羅凍』と親しく話すことはなかった。
通例通り、馨民が宿泊を勧める。けれど、それについては羅凍が断りを申し入れた。姫の無知をさらすわけにはいかない。
馨民も充忠も、変わらず察しがいい。食い下がることなく、話はサラリと流れた。
こうして、庾月は綺へと顔を出す。
クロッカスの髪と瞳を見た店主はなぜか青ざめて、留に部屋の変更を指示した。
「え、じぃちゃん、この部屋……一番高い部屋じゃ……」
「いいから! な、そこの旦那?」
話を振られた羅凍はきょとんとする庾月を一度見、
「ご配慮に感謝します」
と告げた。
ごちゃごちゃと飾られた装飾を、庾月は物珍しそうに何度も立ち止まりながら部屋へと進む。挙句、食堂があると知って、
「私もそっちで食べてみたいわ」
などと浮かれて言う。
羅凍には、その気持ちがわからなくもない。
「では、ひとつご提案があるのですが……のってくださいますか?」
大臣が知ったらどんな処分が下るのかわからないような提案を、庾月は嬉々として受け入れた。
「数時間で戻ります」
羅凍は店主にそう告げ、街へと庾月を連れ出す。真っ先に向かうは服屋。
目の前にした異次元の服に目を丸くした庾月だが、
「こんな経験、初めてよ!」
と、楽しそうに服を選ぶ。『お楽しみなところ、申し訳ないのですが』と加えて、
「できましたら、一着は早く選んでいただけると」
と羅凍は言う。
その意味を理解してか、
「羅凍も選ばなきゃ、よ?」
と、姫らしからぬ笑みを浮かべた。
かくしてふたりは早々に着替え、簡易的な鞄を買い、安価な髪飾りを買い身に着ける。羽が生えたかのように弾んで歩く庾月を見て、羅凍は素直に微笑む。
戻ったふたりを二度見したのは叔だ。
『これなら食堂で食べてもいいだろう』と態度で示されては、断りようがない。
「安全保障は料金外ですよ……」
ため息交じりに言う叔に対し、庾月と羅凍はハイタッチをした。
ガヤガヤとした音楽と、ワイワイとした活気に庾月は目をキラキラとさせる。料理が運ばれてくれば、異国の料理だとまじまじと見て、一口食べると頬が溶けそうなほどにゆるむ。
羅凍は姫の要望を叶えられて満足なのか、庾月と同じように笑いながら食べる。けれど、垣間見える年相応の笑みは安堵なのだろう。
庾月の視線が留を追う。
食堂に来れば留と話せると思っていたのかもしれない。だが、料理を運んでは皿を下げ、テーブルを整え、それを繰り返す留に庾月は一言も声をかけられなかった。
食べ終えても暫時、その場にとどまったものの、庾月は席を立つ。綺に入る前の嬉々とした雰囲気を失い、気落ちしたような背を羅凍はほどよい距離で追う。
「また、来ましょうね」
別れ際、部屋の前で言った羅凍の言葉に、庾月はパッと顔を上げた。
「考えてもなかったわ」
「そうだと思いましたので」
「また今度来るときは……この服も髪飾りも、こっそり持ってくるわ」
「そうですね。それでまた、色んな店も見て回りましょう」
悪気なく言う羅凍に、庾月の笑顔がワッと咲く。
「羅凍って……いい人ね」
「城の他の人からしたら、悪人かもしれないですけど」
あははと笑った羅凍に、庾月も笑った。
翌朝、庾月は来たときのようにきちんと身なりを整える。それは、羅凍も同じ。互いに鴻嫗城の関係者にバレるわけにはいかないのだ。
庾月は浮き立つような足取りでカウンターへと向かう。すると、留が帳簿をつけていた。
ここぞとばかりに庾月は駆け付ける。
「また来てもいいかしら?」




