【4】信念
颯唏が轢と頻繁に剣技に勤しむようになってから、庾月は公務で外出が増えた。庾月の護衛には、正式に羅凍が選ばれる。
何ヶ月か経ち、庾月は十三歳になった。
この年で城の行く末を見つめ、宮城研究術師になると決意した。克主研究所にあいさつに行くと大臣に告げる。
早々に決定された日取り。寂しがる颯唏を轢が宥め、庾月は笑顔で羅凍と鴻嫗城を出発する。
通り慣れているかのような足取りの羅凍の背中を見上げ、船の手続きまで見届けたところで庾月はクスリと笑う。
「慣れているのね」
ドキリとした羅凍に返す言葉はない。無言のまま視線を伏せていると、
「助かるわ。ありがとう」
と微笑み、搭乗する。
『初めて船に乗るから』と庾月はバルコニーへと足を運ぶ。羅凍は一度周囲を見渡して庾月の一歩後ろを歩いた。
一直線に端へと歩いていく。
風にあたりたかったのだろうか。はしゃぐ笑顔はなく、スッと遠くに視線を投げている。──羅凍は声をかけず、周囲を警戒することに意識を注いだ。
庾月にとっても沙稀の死去は、大きな変化だった。様々なことが変化し、空っぽになったような心の空洞を埋めるものがない。
恭良は颯唏の出産のときに大きな代償を払い、それから体調を崩し寝たきりに近い状態になっている。それこそ、父が亡くなってから何度会っただろう。両手で足りるかもしれない。漠然と庾月は振り返る。
父が倒れてからは伯父に引き取られたかのように、庾月は鴻嫗城にはいなかった。
父が亡くなりしばらくして、庾月は大臣に呼ばれ鴻嫗城に戻る。そのとき、『父は戦争孤児だった』と颯唏には話すと言われた。
当時、まだ七歳だった庾月に決定権はない。大臣が『そう』といえば、従うしかなく──けれど庾月は、事実は揺るがないと信じた。
庾月は、父が倒れる前に継承者としてたくさんのことを聞いていた。鴻嫗城は『姫』が継ぐ城だと父が言った矛盾は忘れられるものではない。『姫』だったはずの母からは、一言も継承について聞いたことはなく、庾月は父に鴻嫗城の造りを教えてもらい、深部まで連れていってもらっていた。
父が倒れる前の記憶があまりにも鮮明で。そこにいる恭良はとても朗らかな母だったというのに、面影はまるでない。
鴻嫗城に戻ってきてからというもの、恭良は庾月を見てもぼんやりとしたまま。娘と認識されていないようにさえ感じる。けれど、颯唏には昔のような笑みを向けるのだ。
それは、庾月にとって父の死が大きかった以上に、母には抱えきれないことなのだろうと思えて──庾月は娘でいることを手放し、父の愛した鴻嫗城を『鴻嫗城の姫』として守り、継承しようと胸に刻んだ。
だから、大臣がどう舵を取ろうとも、庾月には構わない。庾月の中には変わらない事実が残っている。
それに、大臣には大臣の考えがあると信じ、目をつぶる。颯唏には──弟には、いつか話す機会がくるとも信じて。
七歳で母が寝たきりに近い状態となったことで、宮城研究施設は伯母の誄を筆頭に、いとこたちが手伝い、維持してくれた。庾月も見様見真似から始め、何とか凰玖とふたりだけで運営ができるようになってきた。
凰玖は優秀だ。将来は克主研究所に行きたいと夢を語るほどに。
ふと、父が生きていてくれたならと思うことはある。けれど、口にはしない。一番言いたいのは、颯唏か伯父か、大臣なのか──と、鴻嫗城の姫らしくあろうと父に誓う。そうすることが、父が一番喜んでくれることだと信じて。
だからこそ、庾月は克主研究所にあいさつへ行くと決めた。書類に不足があろうが、克主研究所の代表者は鴻嫗城に泥を塗らないようにするためか、何も言わずに処理をしてくれていた。
常々世話をかけてきた。だから、直接礼を言いたかった。
「海って広いのね」
庾月は海に見入ったかのように言い、船の中へと戻っていく。
「そういえば、庾月様のご両親がご結婚されるとき……この海は光輝いていたのですよ」
羅凍がポツリと言えば、庾月は微笑を浮かべ、
「そう……伝説ではなかったのね。私も、見たかったわ」
と、どこか懐かしそうに言った。
食事の時間になれば羅凍は迎えに来て、見渡すことなく食堂へと案内する。庾月と同じようなペースで食べて雑談をするでもなく、だからこそ庾月はまじまじと羅凍を観察する。
「どうしましたか?」
「羅凍って、モテたでしょう?」
「いいえ、まったく」
即答に庾月は目を丸くし、あははと笑う。
「そう……羅凍って、罪な人なのね」
あまりにも庾月は楽しそうに笑い、羅凍は『笑いすぎです』と言いながら微笑ましく眺めた。
庾月が多少の子どもらしさを取り戻したころ、船は楓珠大陸の港街、緋倉へと辿り着く。あまりにも雑多で、あふれんばかりの人々が行き交っていて、庾月は立ち尽くしてしまった。こんなに多くもの人々の声が賑わう街に来たのは初めてだ。
目が回りそうになる庾月を尻目に、船を降りてからも羅凍は動揺せずにしっかりとした足取りで導く。その様子に庾月は、
「懐かしそう」
と思うがままに口にする。
元々、梛懦乙大陸の出身ではないと思われていたと判断していたのか、羅凍は微笑む。
「克主研究所の君主とは……幼なじみみたいなものだったんです」
すると、庾月は見当違いなことを言った。
「あら、羅凍は克主研究所にいたの?」
思わず羅凍は笑う。
「いいえ。父同士が友人だっただけですよ」
「そう……羅凍はお父様とは友人だったのよね?」
いつしか耳にしたことを庾月は言っただけだが、羅凍は返答に困ったらしい。
「え……と……。そう、ですね。よくしていただきました」
庾月は沙稀が鴻嫗城の王だったと知っている。一概に沙稀との仲を言うのは得策ではないと羅凍は一瞬で判断したのか。
内心、庾月は残念に思う。庾月自身、七歳までの記憶では父と母の関係性を明確化するには難しく、正確性に欠けるのだ。
──羅凍になら聞けるかなと思ったのに……。
ぷうっと膨らみそうな頬を抑え、目的地を見据える。城を出て、羽が伸びていたらしい。『鴻嫗城の姫』に戻ってきちんとした振る舞いをしなくては──と、思ったとき、庾月は雷に打たれたような感覚に捕らわれた。
「留、気ぃつけろよ!」
その、名を聞いて。




