【2】弟
一歩踏み出せば、羅凍が軽い会釈をする。
もう一歩踏み出した瑠既と羅凍の距離は思いの外近い。
更に歩みを進めた瑠既の心情は、変化する。沈めようとした思いが口をついた。
「大臣を信用しすぎるな」
すれ違いざまに呟く。
瑠既はそのまま数歩進んだが、相手の足音が途絶え、振り向く。
「あんた、沙稀と俺が似てないって思っているだろ?」
「はい……ただ、双子だからといって似ているとは限らないと……」
素直な回答に、瑠既は苦笑いする。
「弟の友人くらいは大切にする。何かあればいつでも来い。俺は鐙鷃城にいる」
おもむろに頭を下げ、一礼をする羅凍の態度は『立場』を示しており──それは、瑠既が鴻嫗城に帰城したばかりのころの沙稀のようだった。
「じゃあな。まぁ、ちょこちょこ鴻嫗城にも遊びには来てるよ」
背を向け、軽く右手は上げる。
ただ、それだけの動作だったのに──瑠既は『こんな所作をしたのはいつぶりか』と感じるほどだった。
瑠既に『今後』を伝えたあとの大臣は、羅凍にも同様の話をした。羅凍は驚いた表情を見せたものの、呑み込むように了承の返事をし、大臣は気が抜けそうになる。自ら反感を買うような話をしておいて、羅凍の反応に心をえぐられたのだ。
羅凍は若干気落ちした様子で退室したものの、口を割る人物ではないだろう。
悪いことをしたと後悔の念が沸く。
沙稀が存命していたころは度々あんな様子で羅凍は来て、爽やかな笑顔を取り戻して帰っていた。きっと、沙稀とは何でも言える仲だったのだ。
ため息を重ね深夜になった。大臣はおもむろに部屋を出て城内を歩く。
そうして、ある場所で立ち止まり、ひとまとめになったいくつもの鍵を取り出す。鍵はどれも似たようなものなのに、目の前の扉を開ける一本の鍵を間違えることはない。
扉を開け、物置のような通路を歩いていく。薄暗く、人を阻んでいるかのような道だ。
大臣は、初めてこの道を通ったときのことを思い出す。あれは、二十年以上前のこと。
「ここは……」
ただ、おそるおそる付いてきて到着した場所だった。案内してきた青年は、大臣より一歩前に出て壁を見上げた。
「鴻嫗城の後継者が代々知る部屋らしい。母上は……この部屋を俺に伝えてくださった」
声が沈み、青年はうつむく。グッと何かを呑み込むと、迷いなくまた壁を見上げる。
「ここに、母上と父上の絵画を飾ろう」
それはまるで、青年が己の母と父を忘れないと宣誓するかのような──大臣は青年を見つめ視線を辿り、壁を同じく見上げた。そこには、ちいさなライトが三つ。何かを照らしているかのようについている。
「おふたりのですか……わかりました。そういたしましょう」
青年にとっては大切なふたり。──大臣にとっては、忘れたくても忘れることが許されないふたりだ。大臣はふたりを、純粋に大切だと言えない。
──いつかは……沙稀のように……私にもあのふたりを想える日が、くるのか?
大臣の想いは、祈りに似ていたのかもしれない。
沙稀の言葉を受け、紗如と唏劉の絵画は掲げられた。あれは、沙稀が初めて克主研究所に行く前日だった。
暗闇の中で壁が静かに動く。隠された扉が現れ、大臣は鍵を開ける。ゆっくりと扉を開ければ、ちいさなライトの明かりがこぼれる。
「紗如……」
部屋に入っていくと視界にあのときに掲げた絵画が映る。
「兄上……」
涙声でつぶれる、ちいさな声。
大臣の体は、急激に年なりに縮まっていく。
「私は……『まだ生きたい』とは思いません。ですが、まだ逝けない」
胸元を押さえる左手は、爪を立て己を憎いと言っているかのよう。
「私が犯した罪を、ふたりでいつまで眺めていらっしゃるのでしょう。責めるがいい。……それがいい。どうか、安心していてください。私は、あなた方のいらっしゃるところへは逝けません」
大臣の頭はゆっくりと下がっていく。
「ですから、お預かりしたバトンだけは……しっかりと渡させてください」
自らが生贄になり罪を償うと誓い、願いを乞う。
「見守っていてください。すべての罪は私が……地獄へと持っていきますから」
頭が下がっていけば項垂れたように膝が曲がっていき、右手を床につける。左膝もつけ、ついには両膝、両手、額まで床につく。
「お願いします。あと十五年……いえ、十年でもいいのです。私はまだ逝けないのです……」
同時刻、鐙鷃城にて。瑠既は誄の肌に救いを求めていた。
「瑠既様……」
困惑が過分に含む誄の囁きに、瑠既は我に返る。『以前にもこんなことがあった』と思われたのだろうと勘づけば妙に冷静になり、沈めていた顔を離す。
「どうしたの……ですか?」
「いや……」
気まずい。けれど、なぜか誄はそんな瑠既を見て、ふふふと照れ笑をした。
「何……笑ってんの?」
つられるように瑠既も照れた笑いをする。すると、誄は恥ずかしそうに胸元を隠し、
「瑠既様は変わらずに素敵な方だと思っているだけですよ」
と、うれしそうに言う。
瞬時、瑠既は抱きついた。
「沙稀は?」
「え?」
「何があったって……誄姫の中の沙稀も、変わらない?」
声が震えている。
消えないのだ。大切な弟を失った喪失感が。三年が経った。そう、沙稀が亡くなってから三年が経ち、やっと鴻嫗城は落ち着きを取り戻したのだ。
それでも、瑠既の悲しみはまったく癒えない。色々あった。ありすぎて、忙しくて、これまで何とかなっていただけだ。頭の整理などできていない。いや、大臣の言葉に現実を目の当たりにして頭を整理しようとしたからこそ、瑠既は打ちのめされていた。
「はい」
ギュウッと強く抱き締められる。
ありがたい。こうして誄が寄り添ってくれることが。瑠既は誄をより抱き寄せる。
ふたりはそのまま想いをひとつにした。
翌朝、瑠既は唐突に言う。
「決めた」
誄は疑問符を浮かべたが、昨夜の弱々しさを振り切ったかのように瑠既は笑っている。
「『俺たち家族は何も変えない』何があっても、だ」
宣言するや否や『家族会議だ』と瑠既は子どもたちを集める。そうして、大臣から昨日受けた話を暴露した。
長女の黎は十六歳、次女の彩綺は十四歳、上のふたりに関しては一大事だと言うように目を見開いている。十二歳の三女の凰玖は目をパチクリとさせて姉と母を繰り返し見ている。
黙っている轢は十歳だが、もしかしたら理解したのかもしれない。
瑠既は力強く続ける。
「『俺たち家族は何も変えない』何があっても、だ。ただ、周囲には『合わせろ』。俺はタイミングがきたら庾月と颯唏には真実を話すつもりだ。まぁ、庾月は薄々気づくかもしれないけどな。ふたりが偽りを知ったそんときに、ここにいるみんなの支えが必要になる。ただでさえ重荷を背負うふたりだ。わかるだろ? ふたりの、力になってやってくれ」
誄がやさしく、長女の黎は力強くうなずく。そんな静まり返った中、
「まっかせて!」
と、長いツインテールを揺らした彩綺がVサインをして立ち上がった。剣を教わっていた轢は別として、沙稀を一番慕っていた娘だ。
瑠既が感極まり顔を背けると、
「ね?」
彩綺は鈴を鳴らすように笑う。
「そうだね」
凰玖が続けば、
「うん」
と轢の声まで続けて聞こえてくる。
「おう、頼むな」
瑠既は無理に笑顔を作る。その笑顔を『父様らしくない』と彩綺がからかえば、朗らかな笑い声が飛び交い、秘密の暴露があったとは思えないような雰囲気になる。
こうして、鐙鷃城は日常を取り戻した。
だが、まだ誰も気づいてなかった。
沙稀が他界した日を境に、瑠既から軽快さが薄れていたことを。




