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【Ａ－４】（２）

　ひどく、ひどく恐ろしい感覚だ。

　失いたくないと恐れる。理由はわからない。

　ただ、とても泣きたくなった。

　恭良《ユキヅキ》はトボトボと歩き始める。

　沙稀《イサキ》はつかず離れずの距離を保ち、何も言わなかった。

　それから数日し、恭良《ユキヅキ》は心臓が止まりそうな出来事に遭遇する。午前中の勉強を終え、昼食へと恭良《ユキヅキ》が向かっているときだった。

　沙稀《イサキ》は恭良《ユキヅキ》を迎えに来たのだろう。その姿に恭良《ユキヅキ》は驚いた。恭良《ユキヅキ》にいつも冷ややかな笑みを浮かべる沙稀《イサキ》が、表情をピクリとも変えない。

「沙稀《イサキ》……どうしたの？」

　それどころか、頬に涙の筋がある。けれど、沙稀《イサキ》は頬を拭おうともしない。

　何かを言おうとも。

　恭良《ユキヅキ》が視線を伏せれば、左手が強く握られている。

　再び沙稀《イサキ》の顔を見上げれば、視線と同じく下がったままの口は何も言わないと決めているように一文字だった。

　──ひどい。誰が、沙稀《イサキ》をこんな風にしたの？

　メラメラと湧き上がるのは、怒りの感情。

　──私、沙稀《イサキ》を守るためなら鬼にでも……何になるのも、厭わないんだ。

　怒りの感情をこれまで知らなかった。

　幸せが燃えて灰になっていく。

　恭良《ユキヅキ》を蝕んでいく。

　許せないとグツグツと熱い何かが心を揺らす。

　恭良《ユキヅキ》は両手を見る。

　その手はちいさく、何も救えそうもなかった。

　──真っ黒で、汚い。

　炭のように真っ黒に見えた。スカスカに見えた。触れるものに灰を付けて、汚しそうに見えた。

　これでは沙稀《イサキ》を救えないと震える。

　──私の手は、沙稀《イサキ》を触れていいような手じゃない。

　指が、手が崩れ落ちようと構わないと恭良《ユキヅキ》は思うのに、脆く穢すだけでは意味がないと戒める。

「待っててね、すぐに戻ってくるから」

　ちいさな声で言い、恭良《ユキヅキ》は一度、沙稀《イサキ》の前から姿を消す。

　懸命に走り、自室へ赴く。

　女の人たちの声を耳に入れず、一番きれいなタオル生地のハンカチを必死に探し、握る。

　一刻も早く戻りたかったが、乾いたハンカチでは涙の跡を拭けない気がした。流しに寄り、少しだけぬらす。

　部屋を出て廊下をしばらく歩くと、紫紺の絨毯の先に沙稀《イサキ》が立っていた。

　あのままあの場にいると思っていた恭良《ユキヅキ》は驚く。だが、すぐにうれしさが表情にあふれ出た。

　待ち合わせでもしていたかのように恭良《ユキヅキ》の足は弾む。ハンカチを握った右手を沙稀《イサキ》の頬に手を伸ばす。

　沙稀《イサキ》は驚いたようだった。

　──ごめんね。……恐いよね。

　壊れませんように。どうか、私が沙稀《イサキ》を壊しませんようにと心の中で繰り返しながら、そっと沙稀《イサキ》の頬にハンカチをあてる。

　息を殺すように、やさしく涙のあとを拭く。笑っていてほしい一心で。

　けれど、ふと聞こえた沙稀《イサキ》の声に、恭良《ユキヅキ》は固まる。

「やめろよ」

「え？」

　──やっぱり、嫌だった？

「沙稀《イサキ》様」

　背中から聞こえたのは、大臣の声。

　恭良《ユキヅキ》は混乱しそうになる。

　──私から沙稀《イサキ》を守りに来たの？　壊したくないと願っていても、私は……沙稀《イサキ》を壊しちゃうの？　だから、大臣は私を止めに来たの？

「下がって結構です」

　恐くなり、恭良《ユキヅキ》は手を戻す。

　大臣はそれでいいと言うように、恭良《ユキヅキ》にやさしい視線を投げた。

「恭良《ユキヅキ》様、私といましょう」

「え？　でも、沙稀《イサキ》が……」

「大丈夫です。ね、沙稀《イサキ》様。……お下がりなさい」

　大臣の声は沙稀《イサキ》に冷たい。

　沙稀《イサキ》は、何かを言いたそうなそぶりをしたが、すぐに口を閉じた。

「それとも、お部屋までお連れしましょうか？」

　沙稀《イサキ》が大臣を疑うように見る。

　それが、恭良《ユキヅキ》には誰を見たのか、一瞬理解できなくなった。

「いいえ、失礼いたします」

　沙稀《イサキ》は素早く体の向きを変え、そのまま頭を下げた。

「姫、失礼いたしました」

　頭を上げると、沙稀《イサキ》は下を向いたまま足早に歩いていく。

　その背中は、震えていた。

　──私、やっぱり手を伸ばしてはいけなかったんだ。……でも。

　怒りの炎が燻っている。

　不燃焼をしたように黒い黒い煙が立ち込めて、むせそうになる。

「大臣……沙稀《イサキ》が私のところに来る前に、何があったか……知っている？」

「はい。……存じております」

　大臣が詳細を言わないのは、いつものこと。恭良《ユキヅキ》が聞いても、大臣は『傭兵のことだから』と成り行きを話さないだろう。

「そう……私、沙稀《イサキ》を苛めるような人がいるなら、私がその人を地獄に連れていく。だから、大臣。大臣が沙稀《イサキ》を守ってあげてね」

　残された沙稀《イサキ》を、信頼する人へ恭良《ユキヅキ》は託すと決める。

　沙稀《イサキ》が笑ってくれたら、それでいいと望んで。

「だって、大臣、強いでしょ？」

　恭良《ユキヅキ》が笑ったら、大臣も笑った。

　──冗談じゃないのに、な。

　そう思いつつ、今は伝わらなくてもいいとも思い直す。必要なときがきたら、伝わってくれたらいいと。

　恭良《ユキヅキ》はそうして、沙稀《イサキ》に触れてはいけないと改めて自らに言い聞かせた。

　触れたいと願ったからだと。

　手を伸ばしてはいけないと、己を戒め、沙稀《イサキ》が笑ってくれることを願った。

　だから、予想外な知らせに恭良《ユキヅキ》は心臓が止まりそうなほど驚く。

　信じられないほどうれしかったが、正直、戸惑いも同じくらいにあった。

　まもなくして、沙稀《イサキ》が正式に恭良《ユキヅキ》の護衛になった。