【A-4】(1)
憧れの人に触れた日からしばらくして、恭良は色々な噂を耳にするようになった。
あの剣士はかなりの無茶をするとか、剣の扱いは上手いのに人付き合いは下手だとか、非情な性格だとか、料理はおいしいとか。どんな噂でも耳にすれば恭良はうれしかった。それはあの人が『生きている』という知らせだったから。この城の中にいるという知らせだったから。
そんなことだけで恭良は胸が弾むくらい幸せに一日を過ごす。
「恭良様、何かいいことでもありましたか?」
あまりにも恭良がにこにことしているので、大臣がこう声をかけるほど。
恭良は更に上機嫌になりパッと笑う。
「うん。大臣にだけ教えてあげる」
教えてあげると言いつつ、込み上げる幸せを我慢できなくなり、『ふふふ』と笑い声が出る。そして、笑い声がようやくおさまると、
「たまにね、とっても幸せになれる魔法の言葉が聞けるの」
と、耳にした噂を思い出しながら言う。
恭良にとっては自慢だ。けれど、大臣には疑問だらけなのだろう。ふしぎそうな表情を浮かべている。
そんな大臣を横目に、恭良はまた『ふふふ』とこらえ切れない幸せな笑い声をこぼし、心の中だけで謝る。
──ごめんね。これ以上は言えないの。私だけの秘密なの。
こらえきれない幸せは表現が変わり、恭良は歌を口ずさむ。
一方の大臣は、幸せを噛み締める様をあたたかく見守る。
「そうでしたか。それはよかったですね」
「うんっ」
恭良は大臣のやさしい顔も大好きで、微笑む。
──とっても、とっても幸せな魔法のかかった日。こんな日が続けばいいのに。……なんて、夢みたいなことまで思っちゃう。
憧れの人に触れ、噂を耳にしてから恭良は、こんな幸せに浮かれて過ごすことが多くなった。
恭良にとって幸せな年月が四年ほど経ったころ、思いもよらないことが起きる。
大臣がある人物を連れてきた。それは──。
「沙稀と申します」
動いて、話して、生きている──恭良が目を丸くしているうちに、沙稀は頭を深く下げていた。つい、髪の毛の根本に目がいってしまう。
──リラだ。
ジッと見ていると、沙稀が姿勢を戻す。
恭良は自然と息を呑んだ。そんな様子をよそに、沙稀は淡々と話す。
「本日より大臣に変わりまして、おそばに仕えることが多くなるかと思います。お嫌でしたら、いつでも解任してください」
無表情でそう告げる沙稀を、恭良は見上げた。
──瞳もリラだ。……でも、やっぱりきれいな人なのは変わらない。
恭良を映すリラの瞳は、とても冷たい。
そういえば『沙稀は冷たい人だ』という噂があったと、恭良はぼんやりと思い出す。
「沙稀様」
慎みなさいと言いたげに大臣が言った。その威圧を吹き飛ばすかのように、恭良は口を開く。
「私が『嫌』と言わなければ、沙稀は……いてくれるの?」
期待だった。
ふと、沙稀は恭良から顔を背ける。
「そうですね。ご不満のときは、どうぞお好きに処分なさってください。姫のご命令は絶対だと心得ておりますので」
大臣がまた何かを沙稀に言った。
恭良は目の前の光景が信じられずに、胸がいっぱいになる。
目の前に沙稀がいて、瞳に映してもらえたと。声が聞けたと。喜びに満ち、笑みがこぼれる。
「わかったわ」
恭良はこんな風に話せる日がくるとは、思っていなかった。
それから恭良は、沙稀が言っていた通り大臣にあまり会わなくなる。
その代わりに待ってくれるようになった人物は、沙稀だ。恭良にとってはずっと会いたいと思っていた人。
そんな人が待っていてくれるようになり、恭良は夢心地だった。
会えると思うだけで、朝起きたときからうれしくてたまらない。眠るときも、フワフワとしたまま。
大人しいお人形のふりをして身支度が終わり、『待っていてくれる』『会える』と思えば駆け足になり、声も弾む。恭良には、とてもふしぎな感覚だ。
自室から出れば、沙稀が当然のように待っていた。
「沙稀、お待たせ」
「とんでもございません、姫」
沙稀は微笑み返す。だが、その瞳はガラスのように冷たい。寂しさと悲しみをふんだんに含んでいる。
恭良にはその瞳の意味が理解できない。まだ苦しいのか、どこか痛むのかと心配をしながらも、一緒にいられることに舞い上がった日々を過ごす。
数週間が過ぎた。
『夢ではない』と自覚した恭良はつい、心配していたことを口にしてしまう。
「沙稀は、どこか苦しいの?」
「どうもしておりませんが」
沙稀は恭良がおかしなことを言ったかのように、冷ややかに笑った。
──何か、おかしいことを言ったかな?
恭良は首を傾げる。
「いつも沙稀はやさしく笑うのに、悲しそうな瞳をしているから……ねぇ、大丈夫?」
沙稀の瞳を恭良がのぞき込むと、氷に沈みそうな恭良が映っていた。
澄み切った美しい瞳の中に恭良の姿はある。けれど──。
──沙稀の瞳に『私は映っていない』。
ひんやりとしたものに包まれる。ガラスの入れ物に囚われた感覚に陥る。
孤独だ、ひどく。
己を『お人形』と感情を放棄した恭良には、耐えられない深い深い孤独。寂しさで凍えて息が止まりそうだ。
「姫は、ご慈悲のある方でいらっしゃいますね」
そう言って、沙稀は恭良から顔を背けた。
氷から放たれ、恭良は我を取り戻す。
──沙稀は時折、私を視界から外す。
そのときに見えるのは、決まって悲しそうな笑顔。
──沙稀の辛そうな姿が、苦しい。私はまだ、沙稀の楽しそうに笑う顔を知らない。
恭良はたくさんの幸せを沙稀からもらったと振り返る。
花畑から見ていたときも。
触れられたときも。
噂を耳にしたときも。
こうしてそばにいてくれるようになり、想像できなかったほど幸せだ。
今も増していく一方なのに。
──どうしたら笑ってくれるのかな。
望みがどんどん増えてくる。
さようならと言ったのに。
生きていてほしいという願いが叶っただけでよかったのに。
そばにいられるだけで、夢心地なのに。
恭良は手を伸ばしたい衝動に駆られる。でも、駄目だとすぐに手を止める。
──駄目。私が手を伸ばしたら。私が沙稀に手を伸ばしてしまったら、きっと、私は壊してしまう。
うつむいてグッと耐える。
──大切にしたいこの人を、きっと私は壊してしまう。




