【61】見つめる闇(3)
長年、彼女に捧げてきた忠誠心は揺るがない。彼女の笑顔が見たいと彼はいつでも望み、行動をする。だからこそ、彼女が赤いリボンの意味を明確に伝え、フラリと出しても迷いはなかった。
逆に、彼女が戸惑っているように映ったことだろう。
「本当に?」
『ずっとしたかったことがあるんだけど……』
そう言い、彼女は以前、予行練習かのように白いリボンを彼に着けたにも関わらず。
彼は彼女を愛おしく想い、抱き締めて頬を合わせる。肌で彼女を感じ、長い間唇を重ねて愛を伝えた。
「好きにして?」
彼女を押し倒し、上から彼女を眺める。呼吸が苦しくなるほどに愛おしい。
彼の長い髪が手前に垂れ、視界の端を覆う彩色が変化した。彼女の持つ愛しい色彩よりも淡い紫色は、彼女の髪の毛と混ざるとより主張をする。
彼が煩わしさを感じた一方で、彼女はそちらへと視線を移す。サラサラと触れ、右手側に髪をまとめた。そして、彼の視界に入る位置に赤いリボンで大きな蝶蝶結びを作った。
「うれしい」
彼女の声は、表情は悲しそうにも泣きそうにも見えた。
本当にうれしいとき、人はしんみりと言うものなのかもしれないと彼は解釈をし、彼女をそのまま包み込んだ。
赤は、祝福の色だ。
情熱的な色だ。
積極的な色だ。
生きる力を与える色だ。
強い、感情的な色だ。
危険を知らせる色だ。
血を、血の結び付きを表す色だ。
あれは、忌々しい本だった。
どうにか大切なものを取り戻したいと、取り返したいと、知識を本に頼って読み漁っていたときに手にした本だった。
強烈な表現と言葉で、食い入るように十代の沙稀は読んだ。けれど、叶えるには魂を売るも同然で、現実的ではないと彼は本を閉じる。
だから、ドキリとした。その本の一節を愛しの彼女から聞いて。
ただ、それは一瞬だ。
彼女は博識だ。幼いころから優秀と言われた沙稀よりも知識が広い。ありとあらゆる本を読んだのだろう。強烈な内容だったから、覚えていただけだろう。そこを引用してまで、内に秘めた熱い想いを伝えてくれたと思えば、喜んで受け止めたかったのかもしれない。
一本の幅広の白いリボンを彼女が手にしたとき、上目遣いで照れている彼女を目の前にして、鼓動が高鳴ったものだ。
「何?」
彼はおだやかな口調で聞いたが、彼女は彼の様子を見てか、見ていないのか──視線を伏せた。そして、見せるのを戸惑うように幅広の白いリボンをおずおずと出した。
「リボン……着けてもいい?」
何をそこまで恥ずかしがるのだろうと、彼は自然と照れて笑う。
「いいよ」
サラサラと彼の髪に触れ、大切な物を抱き締めるように頬をあてた彼女。ふと、髪が大きく動き、慌てて声を出す。魅了されていたリラの髪の毛に白いリボンをサッと巻付け、大きく蝶蝶結びをする。
「いい?」
「うん」
彼女の弾む声に彼は振り返る。そこには満足そうな彼女がいて、彼は我慢しきれずに抱き締めた。
彼が前屈みになったことで、彼女の唇の近くに彼の耳があった。スウッと彼女は息を吸う。そうして、あの一言を言う。
「ねぇ……知ってる? 赤いリボンを悪魔が着けると、悪魔はその人を自分のものにできるんだって」
これは、儀式だと本には書いてあった。
まずは名を呼び、魂を縛る。次に、すぐ自らの肉片の一部、もしくはその変わりとなるものを束縛する者の体内へと入れる。そうして、二度と逃げられないと示すために、目の前でしっかりと赤いリボンで縛り付ける。
すると、自らの一部が体内で根を張りその者の一部と化し──縛り付けることができる。
言うなれば、永遠なる従者の完成だ。
悪魔の目的はただひとつ。己の罪を背負ってくれる従者の作成。
従者をひとり、またひとりと地獄へと連れていけば、悪魔の罪は消化される。誰から教わったでもない、本能。
従者にされた者は、自らの意志かのように堕ちていく。
嘘か真かは、誰も知らない。
けれど、彼女は彼の体が動かなくなり意識が落ちてからも声が聞こえ、意思疎通ができていた。親身に世話をして、毎日毎日会話を続け、表情の変化も見ていた。
ある日、彼がポツリと言ったのだ。
「どうしても諦めきれない」
と。
「全部、抜いて」
と。
「恭良にされるなら、痛くも苦しくもない」
と。
彼女は一瞬で涙をためて──涙をこぼさず、無理な笑顔を作って懸命に彼の想いに応えた。そうして、彼は決して見られない未来と懺悔を話す。
「名前は聞いてある」
それは、おだやかにな口調だった。
「男だったら颯唏」
「女の子だったら?」
恭良の疑問に、彼は微かに笑った。
「男だよ」
恭良には何がおかしかったのか、一切わからない。ただ、
「わかった。信じる。『男の子で颯唏』だね」
と、にこやかに返す。
「ああ……筋のいい剣士になるんじゃないかな」
「沙稀に似るんだね」
「恭良が産んでくれるだけあって、ね」
笑い声交じりに恭良が言うと、彼は微笑んだ。けれど、次の瞬間には悲しみや悔しさを混ぜた表情と声に変わる。
「でも、俺って最低だ。……折角産んでくれたって、この手で抱きかかえることもできない」
「離れないで」
「え?」
「私を置いていかないで。どこにも。……そばにいて。『一生離さない』って言ってくれたでしょう? ずっと……離れないで」
ボロボロと恭良は涙をいくつも落とす。
「大丈夫。ずっとそばにいる。……また会える。必ず」
動かないはずの両腕に、恭良は包まれた気がした。けれど、それはないと理解していて、スウッと眠ったような彼に急いで衣服を着せる。
延命を彼は望まなかった。けれど、それさえも彼女に委ねると彼は告げ──彼女は延命を選んだ。それなのに、ここで彼に命尽きられてはと、彼女は必死に痕跡を消し、素知らぬフリをして大臣に内線をかける。
恭良は、ずっと光を背負ったように眩しい姿を追っていた。
きれいな指が大好きだった。
その指の持ち主は美しかった。声も、姿も。──それは遠い遠い過去の話。ふたりの固い誓いが結ばれたのは、遠い遠い過去。
けれど、それは、長い長い悲劇の始まりだったのかもしれない。
今世でも彼の魂は彼女の為に血を流し続け、それを受け止め続けた。彼女はその業に気づき始めていた。
彼が本来いるべき場所へと戻るのに必要なことは、彼女を手放すこと。──だが、その日は永遠にこない。彼は、彼女を手放せないのだから。縛り付けている彼女が、離さない限り。
彼は従順だ。
だから、彼女は彼の魂から羽根を毟るように溺れさせ、沈めていった。血しぶきを上げ続ける彼を見守り、ともに堕ちていった。
「私は……この子とともに地に堕ちます」
それが、彼の魂が出した答えだったから。




