【61】見つめる闇(2)
「渡したいものがある」
「なぁに?」
丸い瞳を向けられ、沙稀は二つ折りの用紙を差し出す。
「俺と、結婚してください」
恭良は飛び起きた。疑うように沙稀を見、おそるおそる用紙を受け取る。両手でゆっくりと開き、
「うれしい」
恭良は笑む。まぶたが感極まった想いを押して、涙が一粒落ちた。
翌日、ふたりは大事に書いた用紙を大臣に提出する。
「確かにお預かりしました。懐迂の儀式のあと、挙式までの間に処理を行います」
「お願いします」
淡々と言った大臣に対し、恭良はリズミカルに返答する。
一方の沙稀は、大臣が浮かない表情に見え何も言えなかった。
「行こう」
恭良が沙稀の手を引く。
沙稀は大臣の様子が気がかりだったが、そのまま大臣の部屋をあとにした。
大臣は結局、ふたりに祝福の言葉はかけなかった。
「ねぇ、誕生日って五月十三日じゃなかったの?」
「ああ」
沙稀は苦笑いした。恭良は大臣から説明を受け、理解したものだと思っていたから。
「本当は一月四日。瑠既と……」
『瑠既と俺は双子だから』と言おうとしたが、沙稀の言葉は止まる。恭良が廊下だというのに唐突に抱きついてきて、言葉が飛んでいった。
「どうしたの?」
「ううん。ありがとう」
恭良は照れたようにちいさな声で言う。
「プロポーズ……言ってもらえると思っていなかったの」
その言葉に沙稀が照れる。『だって』とかろうじて聞こえる程度で発し、
「俺も、ずっとずっと……好きだったから」
と、精一杯言う。
ふと、恭良が見上げ、視線が合う。彼はあからさまに照れて笑った。
「恥ずかしいね」
彼女の持つクロッカスの色彩を瞳に映して、幸せそうに。
色には様々な影響力と効果がある。
『軽い』『重い』『やわらかい』『硬い』といった、物理的な印象を与える効果の他に、人間の神経に影響を与え生理的な効果を及ぼす。更には、回想力や暗記力、認識力を増すという心理的効果を生んだりする。
たとえば、沙稀の場合。
クロッカスは母の持つ色であり、安堵を覚える色であった。だが、幼いころに母を亡くし、自らの色彩も失い、『記憶の中の色』となった。
懐かしさと憧れの色となった一方、憎しみの色ともなり、苦しめ、苦しみ、救済の色ともなった。
のちに、己からは最も遠い取り戻せない色と繰り返し実感し、最愛の人の象徴へと変化していった。懐かしさと愛おしさが重なり『やわらかく』『重く』──それは、真綿で首を絞めるかのようなものではなかっただろうか。
クロッカスの色の髪が、リラの色の瞳の前で垂れて、揺れた。
この日の夜に、彼は彼女に身を捧げることに徹すると決めていた。彼女に対する忠誠の証だ。これからも『鴻嫗城の姫』は、確かに『彼女』だと示す。
鴻嫗城は代々『姫』が継承するのが鉄則。婿入りする者は原則として初夜は姫に従うのみとされている。彼は『正統なる後継者』に戻ったにも関わらず、その座をかんたんに彼女に明け渡した。
彼は彼女を『鴻嫗城の姫』として敬意を払った。彼女の生き方を肯定して、尊重するために。
彼女に対する忠誠の証。
これからも『彼女』が鴻嫗城を継いでいくのだと彼女に示し──たが、それで己が苦しみ、もがくと知らなかった。
彼は幸せだった。
長年想いを寄せた人と結ばれることが、夢のようだった。
詰まる想いは涙となってあふれ出す。──こんな幸せは、存在しないと思っていた。
かくして彼は、彼女に溺れていく。彼女が沈んでいくままに、彼はどこまでもともに堕ちていった。
彼女は彼に口移しで夕飯を与える。──そう、まさに彼女の我儘放題となっていた。
ちいさなブロックの肉を彼女はフォークで口に入れる。『まさか』と彼は思ったが、その直感は当たった。
彼女は当然のように知っている。彼は、いつしか肉を受け付けなくなったと。
しかし、彼女は青ざめた彼に気づかないかのように、彼に口づけをし、口内にそれを転がす。そして、そっと耳元で囁いた。
「沙稀、私の一部だと思えば飲み込めるかもしれないよ」
その囁きに、彼はしっかりと飲み込んでしまい、驚く。
彼女はというと、嫌いな物を食べたちいさい子どもをあやすように、彼の頭をなでた。
彼女がこんないたずらをしたのは、この一度切りだった。彼が『彼女には敵わない』と無邪気な笑顔を見ていると、スルリと彼女はベッドから離れ、ある物を持ってきた。
『ねぇ……知ってる? 赤いリボンを……が着けると……』
それは、彼女が出生を知り、しばらく経ってから言っていた物。
「着けても……いい?」
「どうぞ」
彼は照れを隠せずに、口元がゆるんでいると自覚していた。
初めて彼女が彼にリボンを着けたとき、リボンは彼女を象徴するような白だった。あの日、彼女は恍惚とした表情で沙稀を眺めていた。
「きれい」
彼女はうれしそうに、彼の長い髪を手でサラサラと触れた。
「私、沙稀の髪の毛が大好き」
髪の毛の色にコンプレックスがある彼には、意外な言葉だった。そして──。
「今度は赤いリボンを着けても……いい?」
彼女には妖艶さがどこか漂っているように見えた。
初めて見るような彼女に彼が戸惑っていると、彼女はふと視線を外した。
「やっぱり、駄目だよね? 赤いリボンなんて、男の人に着けるものじゃないし……」
眉を下げて言う恭良は、確かにいつもの恭良だった。リボンを着ける前の、照れて慌てたような。
沙稀は幻覚を見たような気がして、おかしいと気がゆるむ。
「いいよ」
彼は幸せそうに笑い、大切そうに彼女を抱き締める。沙稀が今すぐでもいいと告げたのに、頑なに彼女は拒んだ。そして、判断を慎重にし、悔いのないようにと忠告までする。
「今度でいいの。それに……そのときに嫌だったら、ちゃんと言って?」
なぜ、彼女の微笑みが悲しそうだと感じたのか、彼には理解できなかった。彼は、彼女に何を捧げても不安なことなどないと身を挺していたから、彼女の言葉の意味も正しく理解はできなかった。
ただ、彼女の悲しみや不安を消すように、彼はやさしく告げる。彼女の両手からすり抜け、耳の後ろにそっと唇をあてて抱き締め直す。
「恭良の好きに、何でもしていいよ」
真っ赤な色のリボンを持つ彼女を前に、彼は以前の言葉を思い出したことだろう。それは、ある書物に書かれていた言葉で、彼は姫の護衛になる前に読み、知っていた一文だった。それを彼女が知っていたと驚いたが、彼女が言えば何てかわいらしいことを言うのかと、うぬぼれないよう心を鎮めなくてはと有頂天になったものだ。
彼には無垢な白が一面を覆う祝福のときに目にした赤いリボンは、更なる祝福に感じたのだろうか。




