【60】動く『時』(2)
玄に会いに足を運ぶのは、二度目だ。一度目は蓮羅が生まれたとき。そう思えば、何て薄情な夫だろう。
──もっと早くに……。
別れを告げて、自由にすればよかったのかもしれないとさえ思う。どうにかうまく関係を築けたら、なんて一時でも思ったのは、どんなに勝手な解釈だったか。
生きていてほしいというのも、幸せでいてほしいというのも、実に一方的な願いだ。傷付けるのを恐れ、別れを切り出されるのを待っていたようなものなのだから。
ノックをして名乗ると、『どうぞ』と玄の声が聞こえた。扉を開ければ、他の病室とさほど変わり映えのしない狭い一室に玄は一凛の花のようにいる。
「別れよう」
凛々しく咲いた花は、強風に吹かれても倒されないかのごとくしっかりと耐え、羅凍は押し黙る。
なぜ、この花は水も与えず、陽にも浴びずに枯れ果てないのか。萎れもせず、花弁も葉も厚くしっかりと身を保っている。
「嫌です」
羅凍は驚く。初めて玄がはっきりと意見を述べたから。
しかし、羅凍は気持ちをしっかりと固めてきた。
話し合いをするつもりは毛頭ない。一方的だと言われても、そうだと受け入れるしかできない。ずっと、そうだった。玄に対して。
これまで、別れを切り出さなかったのは、自身の身勝手だと感じていたからだ。それに、そう告げて禾葩の二の舞になっては困るからだ。
だが、今は違う。
玄は羅凍が思っていたほど、弱くない。だから、羅凍から切り出さないことが卑怯にも思えたし、縛り付けているようにも感じたのだ。
自らが城を出るのであれば、玄と別れることが彼女のためでもあると──けじめであると、玄に向けられる誠意だと、羅凍は結論を出していた。
「ごめん。俺はひどい男だ」
「私はそんな風に感じたことはありません。いつも羅凍様はおやさしいから。……私の方がひどいんです。辛い思いばかりをさせて、自分ばかりが幸せになってきたのですから。貴男のやさしさに甘えて……決して貴男を離そうとはしなかったのですから」
玄の視線が動き、羅凍は視線を外す。
「今のままで、私は充分です。ですから……別れたくはありません」
「俺は……鴻嫗城へと行く。……行かなくちゃいけない」
珍しく羅凍が言葉を被せる。苦しい。こんなにもまっすぐに気持ちを向けられることが、苦しいとは想像をしたこともなかった。
似ているからこそ、辛く、苦しい。玄といるだけで、玄の想いに締め付けられる。
「だから、髪を切ろうと思う。もう、羅暁城に戻ることはないから」
きっぱりと言い、玄としっかり向き合う。
「ごめん」
まっすぐに羅凍を見ていた玄は、次第にうつむいていく。その姿に、かつての己の姿を重ねたのか、羅凍は背を向けようとした。すると、玄がポツリと呟く。
「貴男は自分を責めないでください。笑ってくださる羅凍様が……私は好きでした」
足が金縛りにあったように動かなくなる。
玄の声は弱々しいのに、羅凍にまだ聞いてほしいことがあると訴えてきて。嫌な緊張感が付きまとう。
「貴男を羅暁城から見送るかわりに……お願いがあります」
鼓膜に直接響いてきたような続きの言葉に、羅凍は驚き振り返る。
玄は悲しそうに微笑んでいた。
「私はずるいんです。最後までひどい女なんです……そういさせてください」
羅凍は頭が真っ白になる。わからない。玄が。──けれど、向けられている想いだけはヒシヒシと伝わり。それは、よく知っている感情なのだ。
羅凍は足を踏み出す。羅凍の願いを叶えるために。
玄の願いを、叶えるために。
ずるくて、ひどい。
お互い様だ。──いや、玄は、深い深い爪痕を羅凍に刻み込みたいのだ。決して消えない、痛みの消えない傷跡を。
それで玄の求める幸せが手に入るのであれば、羅凍は甘んじてそれを受け入れる。──それしか、玄に報いる術がないのだ。
およそ三ヶ月後、羅凍はようやく羅暁城を発つ。長かった漆黒の髪を切り落として。
船に乗る前、羅凍は羅暁城を見上げた。
今まで牢獄のように感じ、解放されるときを今か今かと待ち望んでいた場所。──しかし、城下町から見た羅暁城は今まで思っていたよりも『城』らしく、白い壁に映える澄んだ水色は、とても美しく見えた。
約一日がかりで梛懦乙大陸へ着く。久しぶりの大陸は、短い髪には新鮮で──なぜか自らを異質な存在に感じた。
貴族しかいない大陸だったと思い返し、束ねられなくなった短い襟足に触れ、満足そうな笑みを浮かべる。
向かうは鴻嫗城。こんな髪で向かっていい先ではないと理解していても、こうしないと羅凍は向かえなかった。
鴻嫗城の裏門を知らない羅凍は、当然のように正門から大臣を訪ねる。門前払いをされて当然だが、
「大臣の世良様に呼ばれている」
と羅凍は嘘をついて食い下がった。
門番は騒ぎ立て──大臣の耳に入り、訝しみ大臣は正門へと来た。
大臣を見つけた羅凍は苦笑いをする。
「世良様!」
聞き覚えのある訪問者に、大臣は驚く。
「羅……」
短い髪を見て、大臣は口を慌ててつぐんだ。そうして、私の呼んだ来客だと門番に言い、羅凍のついた嘘は嘘ではなくなる。
客間へと通された羅凍は、胸に手を当て一礼する。
「突然の訪問、申し訳ありません。感謝します。羅……凍……『來』とでもお呼びください」
短く切られた髪、名を消す行為。──何を意味しているのか、大臣には痛いほどに伝わる。
「頭を上げてください」
大臣は懇願するように言ったのに、羅凍はスッと膝をつく。
困り果てたように大臣がため息を吐く。羅凍は鴻嫗城に仕えると態度で示しているのだ。
「可能であれば」
痛々しく羅凍を見つめ、大臣は声を振り絞る。
「『羅凍』様と、これまでと同じく名乗ってください。沙稀様の……大切なご友人のままでいてください」
大臣の声にひざまずいていた羅凍が顔を上げた。何かを言いたげな表情に、大臣は深く頭を下げる。
「お願いします」
沙稀を思う大臣の心は、やさしさに包まれたものだと羅凍は感じたのだろう。
「はい」
羅凍はなぜか感じた深い後悔とともに、強く返事をした。
 




