【５９】混濁と
「以前、一度だけ……至急、医師を呼んでほしいと、恭良様から内線をいただいたことがありました……。沙稀様からチューブが外れているから、と……」
「それって……わざと恭良が？」
「まさか。そんなことはなさらないでしょう」
大臣はあり得ないと流す。
「そのとき、すべてが外れていたのですよ？」
延命を宣言したのは恭良だ。それなのに呼吸器も外れていたとなれば、言動に矛盾が生じる。
「恭良様がわざわざ沙稀様の命を落としかねないような危険を冒すと思いますか？」
呼吸器を故意に外す──結果を想像したのか、瑠既は身震いした。
「そうだな。悪戯にしては質が悪すぎる」
青ざめた瑠既に、大臣がそっと背中に手をあてる。
「貴男も、体に負荷はかけてはいけませんから……ね」
「わかってる」
カチャ
扉が開き、ふたりは自然とそちらに向く。姿を現したのは渦中の人物だ。
「あ。お兄様」
にっこりと恭良は微笑み、沙稀に近づく。瑠既は恭良の姿を追いかけながらも、何も言わない。
そんな瑠既の様子を気にするでもなく恭良はベッドを回り、瑠既の対面でベッドの上に座る。
大臣は『では』と一礼をして退室した。
パタン
瑠既に警戒するような間が漂う。矛盾──瑠既からすれば、恭良は矛盾だらけだ。出会った赤ん坊のころから変わらず、現状も。
重々しく瑠既が口を開く。
「ついさっき大臣から聞いたんだが、二人目……なんだって？」
『うん』と恭良はうなずき、頬を赤くする。沙稀の手を取り、腹部の上に乗せる。今日も元気だとお腹の様子を伝えるように、微笑んで。
「でも、コイツ……ずっと眠ってんじゃん？ 意識があったときだって、倒れてからは動けずに……」
「なぁに？ お兄様は、私が沙稀以外との子を産むとでも……思っていらっしゃるの？」
恭良とは思えないほど冷たい表情に、瑠既は息を呑む。
「え？ ……いや」
「でしょ。沙稀の前で変なこと言わないでください」
冷たく言ったかと思えば恭良はにっこりと微笑み、また沙稀に話し始める。それはそれは、幸せそうに。
瑠既は恭良に嫌悪を抱いているが、沙稀の意識がある間、恭良から瑠既に対しての嫌悪を感じたことはなかった。けれど、沙稀が意識を失ってからは──敵視、と言ったらおかしいが、明らかに刺のある言い方が増えている。
元々好かれようとも思っていない人物にどう対応されようが瑠既はどうでもいいが、何かが引っかかっている。それが、言い知れぬ不満と不安だと捉えられず、モヤモヤとした気持ちを瑠既は抱える。
それでも、沙稀の妻であり、命がいつ尽きてもおかしくない弟の子を宿している身。庇ったり、労わったり、気にかけないわけにはいかない。
瑠既がストレスをためつつも、恭良に負荷がないようにと配慮しつつ、月日が流れ、恭良の体調は順調のまま無事に安定期に入った。
庾月は鐙鷃城で預かったままだが、恭良に不満はなさそうだ。
沙稀の意識が落ちてから、庾月は両親に会えないまま。事情を理解しているのか、不満を言わず、瑠既の娘たちと姉妹のように過ごしている。
「寂しくはないか？」
瑠既がこっそりと聞いても、
「黎お姉様も、彩綺お姉様も凰玖お姉様も轢も、みんながやさしく仲良くしてくださるから、寂しくなんてないです」
と、にっこり笑うのだ。
もう六歳になった。鴻嫗城に戻さねばと思いつつ、誰かの目が行き届く範囲にいてほしいと望んでしまう。
娘に過保護になるなと沙稀に言っておいて、瑠既が庾月に過保護になっている。どうしても、重ねてしまうのだ。己の幼少期と。
黎は十二歳になり、ますます誄と雰囲気が似てきた。子どもたちの中で年長だと自覚があるのか、面倒見がいい。
十歳の彩綺は相変わらずツインテールが気に入っていて、奔放な部分が父似かなと瑠既は苦笑いしてしまう。
八歳の凰玖は上のふたりに色んな髪型にされるが、どんな髪型を見ても瑠既は幼かったころの誄と重なって見え、時折、照れてしまう。
轢は前髪を含めての一本結いが定着した。ちょっとは男らしい顔立ちになるかと想像していたが、おだやかな顔立ちで──やはり誄に似たのだろう。一点気になるのは、庾月のとなりに常にいることだ。一言も沙稀のことを言わない庾月とは対照的に、轢は瑠既に沙稀の容態を訪ねてくる。
久しぶりに稽古をつけてほしいのだろうなと、また、その理由が変わらないんだろうなと瑠既は思いつつ、質問をかわす。
「沙稀が元気になったら、真っ先に庾月が鴻嫗城に帰るぞ？」
とからかえば、轢はしばらく訊ねてこない。
瑠既はため息をつく。息子の初恋は叶わないだろうなと。いくら昔から轢が庾月を見ていても、庾月にその気配がない。庾月にとって轢は、黎たちと同じように従姉のひとりで、特別枠があるとしたら『同い年』というだけなのだろう。
ただ、恋はいつ始まるか定かではない。
息子の初恋が叶うといいなと思いつつ、瑠既は今日も鴻嫗城へと向かう。
「お兄様！ お兄様、聞いてっ！」
沙稀の病室に向かい、地下の奥まで進んできた瑠既を、恭良が珍しく待っていた。
弾ませた声の恭良は小走りで、今にも飛び跳ねそうな勢いで近づいてくる。こんなに上機嫌な恭良は何年ぶりか。
「お腹の子が動くようになってからね、沙稀がたまに笑ってくれるの！」
「沙稀が？」
瑠既が驚くと、
「うん！ 来て、来て」
と、うれしそうに恭良は駆け出す。
「おいっ、走るなって」
「え～？」
「沙稀も……そう言うだろ？」
ピタリと恭良の足は止まる。
「はい……」
ちいさく返事をし、シュンとした様子に瑠既は頭を抱える。
「あ～、泣くな。沙稀に怒られんのは、俺なんだから」
「お兄様……ひどい」
ため息交じりの瑠既の声に、恭良はトボトボと歩き出す。
更に瑠既はため息を重ね、追いかける。
「あ～もう、悪かったよ！ ご機嫌を直してください、お姫様」
沙稀を思い、瑠既はご機嫌を取ろうとする。入室する前に恭良の機嫌を直さねばと必死だ。
その甲斐あってか、沙稀のいる部屋の扉を恭良は上機嫌で開ける。
「沙稀、お兄様を連れてきちゃった」
入るやいなや、今にも跳ねそうな勢いでベッドへと向かっていく。ベッドの上に座る恭良は、腹部に沙稀の手を乗せた。
「ほら、今日も元気なの。早く沙稀に会いたいって言うんだよ。わかる？」
数秒後、恭良はクスクスと笑った。
「ふふ、やっぱり沙稀にはわかるんだね」
その笑顔は本当に沙稀と会話しているようだ。
「あ……ほら！」
ふと、恭良が瑠既を見た。
「ね？ お兄様、沙稀が笑っているでしょう？」
それはそれはうれしそうに笑う恭良に、瑠既はのぞき込む。──だが、変化があるようには見えなかった。
恭良は沙稀が倒れた当初からこうだった。起きているかのようにずっとずっと話しかけ、会話を本当にしているようだった。
瑠既だって、沙稀が会話をしていると信じたい。聞こえていると信じたい。信じたいが、直視したくなくても現実は、認めるしかない。
恭良は、認めることがいつからかできなくなってしまったのだろうか──ふと、瑠既はそんなことを思ってしまって、もし、恭良と同じような立場になったらと初めて寄り添う気持ちが湧く。
「名前は……もう決めているのか？」
瑠既は沙稀を見ながら話す。聞こえていると願って。
「うん。でも、まだ秘密なの」
答えたのは恭良だ。沙稀が一緒に話しているかのような、弾んだ声。
「ね～」
恭良は沙稀に同意を求める。
瑠既には、当然のように沙稀の様子は昨日までと変わらない。
「へ～」
瑠既は視線を逸らす。
「そういやさ、庾月の名前の由来は？」
「本人がそう言った……から？」
「は？」
おかしい返答に、瑠既は思わず聞き返す。
恭良は瑠既を見上げ、ふしぎそうに首を傾げている。
「沙稀がね、そう言っていたの。庾月がお腹にいたとき、『恭良を抱き締めると、たくさん話しかけてくれるんだよ』って。名前もそのときに聞いたんだって……私には聞こえないけど、沙稀は会話ができるのねぇ、いいなぁって話していたんだけど……」
『どうしてそんなことを聞くのか』と、ふしぎそうな恭良に対し、
「ふ～ん……」
と、瑠既は返事をするしかなかった。
