【58】薄れゆく希望(2)
措置を終えた者たちが一礼をしては退出していく。最後に、医師から大臣へ短い言葉が告げられた。扉の閉まる音がし、大臣の瞳からはボロボロと涙がこぼれ落ちていく。
決断を、下さなければならない。
大臣は瑠既と恭良を呼ぶ。独断で決定はできないが、大臣の中で決断は出ていた。
静かに恭良はやってきて、慌ただしく瑠既がやってくる。入室したふたりは、沙稀を目にして安心したような、落胆したような複雑な表情を浮かべた。これまで自発呼吸を保ってきていたのに、呼吸器が装着されている。
大臣が重く口を開く。
「私は……沙稀様の意思を尊重したいと思います」
「私も」
はっきりとした恭良の声に瑠既は動揺する。
「恭良」
瑠既がジッと恭良を見る中、大臣が言う。
「そうですか。では……」
「ええ。私のしたいようにしていい……と、沙稀は言っていたわ」
大臣は一度、呼吸を止め恭良を見る。
「私は……」
まるで声は発していないかのように、恭良は口元を動かした。
その日、大臣は懐かしい光景を夢で見る。
トントントン
扉がちいさく叩かれた。
「大臣、まだ……起きている?」
かわいらしい声が聞こえ、大臣は読んでいた本を戻し、静かに扉を開ける。──そこには幼い沙稀がひとりで立っていた。
「どうしましたか? こんな夜中に」
沙稀は何かを言いたそうにして、うつむく。大臣はそんな沙稀を自室へと招き、ホットミルクを入れる。
「どうぞ、あたたまりますよ」
「ありがとう」
沙稀は両手をカップに伸ばす。カップを両手で支えるのがやっとというほど、ちいさい手だ。
沙稀はホットミルクを二口飲み、カップを置いた。
そして、再びうつむく。
大臣はただ見守る。すると、ちいさな口がやっと開いた。
「あのね……無理なのは、わかっているんだ」
『はい』と、大臣は相槌を打つ。だが、続きが沙稀の口から出てこない。
「何ですか。沙稀様、おっしゃってください」
そっと背中を押すように促す。
ちいさい体は、縮まりそうになるのをグッと耐えるように、ギュッとカップを握った。
「あの……さ。瑠既を……瑠既だけでもいいんだ。母上に、会わせてくれないか?」
顔を上げ、沙稀は必死に言う。困ったような、寂しいような表情を浮かべ、大きく息を吸う。
「あ、あのね。瑠既ったら、さ。今日『母上に会いたい』って言って……泣きそうで」
そう言う沙稀の方が泣きそうだ。
居たたまれなくなった大臣は、口を挟む。
「紗如様にお会いできず、辛い思いをなさっているのは……沙稀様。貴男も同じでしょう?」
大臣の言葉を聞き、瞬時に沙稀の瞳に涙がたまった。
「安心なさってください。あなた方のこと、紗如様は心から愛しています。会いたいと、願っています。紗如様もお二方に会えずに、さぞやお寂しいことでしょう」
大臣は沙稀の前で膝をつき、そっと抱き締める。──ちいさな体は震えることさえ、耐えているようだった。
パッと離れ、大臣はやさしい笑みを浮かべる。
「そうですね。会えるように尽力いたします」
「うん」
ワッと沙稀に安堵の花が咲く。
「さ、ホットミルクであたたまったら、ゆっくりと眠ってくださいね」
ふと、大臣は目を覚ます。
上半身を起こし、何気なく窓を見た。カーテンからは月明かりがこぼれている。
大臣に、じんわりと涙が滲む。
一方、瑠既も幼少期の夢を見ていた。
幼い瑠既は沙稀の部屋にいる。寂しさを紛らわすかのように、フカフカの枕を抱き締めて。
「母上の体調が、あまり優れないようだけど……大丈夫かな?」
「何を言っているのさ。瑠既は心配性だな。母上なら……きっと、大丈夫さ」
ポンと弾むように、沙稀が瑠既となりに座る。けれど、瑠既の心は沈んだままだ。
「母上はきっと……俺たちのこと、嫌いになられてしまったんだ」
涙ぐむ瑠既に対し、沙稀はムッとした。
「瑠既! お前は母上からそんな軽い愛情しかもらわなかったと言うのか?」
怒る沙稀に、瑠既が顔を上げる。咄嗟に瑠既が首を横に振ると、沙稀は『そうだろ』と自信ありげに笑った。
瑠既はこのとき沙稀が言った言葉を、はっきりと聞きながらまぶたを開ける。
「だろう? 大丈夫。母上の体調がよくなったら、会ってくださるさ」
あれは、六歳になる前の日だった。昔から沙稀はいつも周囲に気遣い、強がっていた。
そして、いつもやさしかった。
その日の昼、瑠既は沙稀のいる部屋に顔を出す。
掃除をしていた大臣が驚くように瑠既に目を留めた。
「珍しいですね、この時間にいらっしゃるなんて」
瑠既は沙稀のベッド横にある椅子に座る。沙稀の顔をジッと見て、しみじみと呟く。
「昔の……母上がまだ生きていたころの夢を見て」
「奇遇ですね、私もです」
大臣は開けていた窓を閉め、鍵をかける。
「あのころと変わりませんね」
おだやかな大臣の声に、瑠既は視線を上げる。
「瑠既様は不安を感じると、沙稀様のそばにいる……そうでしょう?」
しばらく大臣を見ていた瑠既だが、右手を左手で包むと再び沙稀に視線を移した。
「昔、俺たちは犬が怖かった」
「沙稀様にもそんな時期があったとは、意外ですね」
「俺が怖かったんだ。沙稀だって本当は怖かったに決まってる。……ずっと俺は、そう思っていたのに……」
瑠既は声を詰まらせた。
「俺は、コイツのために、何を……してやれたんだ……」
悔し涙を流す瑠既の姿は、その昔、沙稀と離れたころと重なる。
大臣が沙稀の意思を尊重すると言ったあの日、恭良は真逆の主張をした。大臣も瑠既も、それを覆せるはずがない。ただ、瑠既はわかっていたのだ。それが、沙稀のためではなく、瑠既の、大臣の、恭良のためであると。
それでも、覆せないのだ。
昼下がりの掃除の時間、また瑠既が顔を出す。大臣はカーテンをしっかりと閉め、座った瑠既にこっそりと表沙汰にできないことを告げる。
すると、瑠既は呑み込まず、驚きの声を上げた。
「はぁ? 恭良が……妊娠?」
大臣はすぐさま唇に指を置き、内密にするようにと諭す。
「そんなに大きな声で言わないでください。……まぁ、私も驚きましたけどね」
沙稀が昏睡状態に陥り、二ヶ月半。恭良の甲斐甲斐しさは変わらず、しかも、来る度に沙稀と一方的な会話をうれしそうにしているのも変わらない。
けれど、沙稀が意識を取り戻した日はない。
「そういえば……」
大臣は思い出したようにポツリと呟く。




