【57】ずっと望んでいたこと(3)
落ち着きの含むやさしい声なのに、恭良の瞳には涙がたっぷりとたまっている。尚且つ、恭良の表情は沈み、不満が浮き出ている。けれど、やっと起きた沙稀の気持ちを汲んでか、口を一文字にしながら首肯した。
「瑠既」
呼ばれると思っていなかったのか、瑠既はハッとしたように沙稀に視線を送る。
「大臣が出るまで……恭良を頼む」
『ヘイヘイ』と瑠既は仕方なさそうに返事をし、
「行くぞ」
と、恭良に声をかけ扉に向かう。
恭良が素直に付いていき、ふたりは退室した。
すると、沙稀は残る大臣を見る。
「俺は、どのくらい眠っていた?」
「一週間です」
「そうか」
沙稀は重い声を出す。
「庾月の誕生日は……過ぎたんだな……」
三回目の誕生日を祝えなかったと嘆く沙稀に対し、大臣は鬱憤を口にする。
「医師から前兆があったはずだと言われました」
責めるような冷たい声だ。
沙稀は答えようとはしない。沈黙が流れ、大臣が痺れを切らす。
「どうなのですか?」
「あったとして、それが?」
「なぜ言わなかったのですか!」
「言って、診断を受ければ改善していたと言いたいのか?」
「どうにか……できたかも、しれません……」
悔しそうな大臣の声に、
「そんなものは気休めだ」
と、沙稀は言い放つ。
大臣は大きく息を吸い、感情を抑える。
「意識が戻り、安心しました」
「安心?」
「もう……意識が戻らないかもしれないと、言われていましたので」
ふと、沙稀は皮肉だと言いたげに笑った。
「その方がよかったかもしれないな」
「何てことを……」
「動かない」
ズシリと空気が重くなる。
大臣の瞳が揺れた。
「俺は、普通に話せているか?」
よく見れば、沙稀は苦しそうにも見える。
大臣は電話へと走り出す。
「診てもらいましょう。一時的なものかもしれません」
「大臣」
受話器を上げた大臣が沙稀に振り返る。
「診察に立ち会う気か? もし……」
「貴男の弱気な発言は聞きたくありません。私だけが立ち会います。すぐに医師を呼びます」
内線の番号を押した大臣は、早口で医師に報告を始める。
沙稀の意識が戻ったことを。
会話ができることを。
体が、思うように動かせないことを。
受話器を置いても、沙稀が言おうとした続きを大臣は聞こうとしない。
大臣には予測が付いているのだ。沙稀が何を言おうとしていたか。それは到底、大臣には受け止めきれない言葉だ。
五分ほどで医師が入室し、診察が始まる。
「どうですか?」
「わからない」
医師の問いに、沙稀は淡々と返す。
「では、これは?」
「何も」
「これはどうですか?」
「たぶん、痛い。……何かを微かには感じる」
「首は動くのですね?」
「ああ、何とか」
医師は一礼をし、後退する。
「左側は痛みをわずかに感触として認識できるようです。動くのは首から上……ですが、やっと動かしていらっしゃるのでしょう。その他は……感覚もなく、まったく動かないようです」
控えめな声で話した医師に、食らい付いたのは大臣。
「回復の見込みは?」
医師は視線を下げて応答する。
「難しいでしょう。意識が戻ったのは奇跡に等しいですし、もし、再び失ってしまったときは……」
「ありがとうございました」
医師の言葉を遮ったのは沙稀だ。
「いいえ、恐れ多いです。それでは、定期的な診察にきますので、よろしくお願いいたします」
「ああ、頼む」
医師は会釈をし、退室する。
扉が閉まり、沙稀が口を開く。
「大臣、頼みがある」
「はい」
「恭良と……もう会いたくない」
「恭良様とのお約束を、違えるおつもりですか?」
「こんな姿を見せたくない」
大臣が不服そうな顔をする。
「意識があるうちは医師の判断に従う。ただ、また俺の意識がなくなったらもう……延命はしてほしくない」
「ご自分で伝えてください」
聞きたくなかったというように、大臣は突き放す。
「私は、貴男を誰かに頼るような男に育てた覚えはないので」
冷たい言葉を残し、大臣は部屋を出ていく。
大臣が恭良を呼ぶのは明白だ。けれど、沙稀がいくら落胆したところで、回避する術はない。
案の定、一分も経たないうちに恭良が姿を現す。
「私の番……でしょ?」
沙稀は観念したのだろう。できる限りの笑みを浮かべているのだろうが、無理が混ざっている。
一方の恭良は、恥ずかしそうに沙稀に近づく。照れながら沙稀の左手を両手で包み込む。
「久しぶりにお話できるの、うれしい」
「恭良」
うれしそうな恭良と、沙稀の表情は対照的だ。そんな温度差があっても、恭良は『なあに?』と首を傾げ、ゆらりと髪を揺らす。
沙稀が見つめ、笑みを消失していっても、恭良の笑みは消えない。待ち望んでいたように、沙稀の言葉を待つ。
発言に抵抗があるかのように口を開いた沙稀だが、その口調ははっきりとしていた。
「もう、来ないでくれないか」
恭良の表情は驚きに変わり、今度は曇り、瞳が潤んでいく。
「いや」
「俺はもう、首から上しか動かせない」
「だから?」
「こんな俺を……見ていてほしくない」
視線を逸らした沙稀の頬に、恭良はそっと触れる。
「沙稀が体を動かせないのなら、私は喜んで何でもする」
沙稀を見つめ、恭良は続ける。
「私、ひどいかもしれない。でも、うれしいの。安心しているの。だって、これで沙稀はずっと私から離れないでいてくれる。やっと……」
恭良は煌めいた瞳からポツリと一粒の涙を落とした。
「やっと、ひとつになれるのね。私たち」
幸せそうに恭良は微笑み、唇を重ねる。
時間にすれば、一秒か二秒。
唇を離した恭良は、懇願するように言う。
「今が私の、至極の幸せ……だから、私から奪わないで」
半ば呆然とした沙稀は、一度息を呑み、震える声を出す。
「恭良、こんな俺でも……まだ、一緒にいてくれるの?」
「もちろん。ようやく沙稀を独り占めできるの。それなのに手放すなんて……私は、そんなこと絶対にしないわ」
満足そうに恭良は微笑み、沙稀の胸に顔を埋める。
「沙稀。これでずっと、ず~っと一緒ね」
恭良は幸福に満ちているが、今度は反対に沙稀が瞳に涙をためている。
震えに顔を上げた恭良は沙稀の表情に首を傾げる。そうして沙稀の涙を拭き、再び唇を合わせた。




