【57】ずっと望んでいたこと(1)
沙稀たちが克主研究所から帰城し、数ヶ月が経った。寒さは険しく、雪が降っている。
極寒の寒さに震える日、誄は出産した。初の男子。長男は轢と名付けられる。
およそ一ヶ月半後のあたたかい日、鴻嫗城が慌ただしくなる。数時間後には、夜中だというのに瑠既が鴻嫗城の地下へと向かっていた。
宮城研究施設を過ぎ、治療室も通り越して懐迂へと続く道へと進む。
懐迂へと続く道の手前に、沙稀の姿があった。膝の上で肘をつき、祈るように座っている。
「心配しすぎ」
過呼吸気味に震えていた沙稀の体がピタリと止まる。
瑠既はニッと笑い、沙稀のとなりへと座る。
「大丈夫だって。ここで俺たちも産まれたんだ」
沙稀の握る両手が額から離れた隙に、瑠既はその両手に右手を重ねる。
「こんなに冷えちゃって」
おだやかな口調の瑠既とは正反対に、沙稀の表情は不満で覆われる。握っていた両手がパッと離れ、スッと瑠既の手から離れた。
「俺に触れるな」
その言葉に瑠既は苦笑いだ。
「名前、何て付けんの?」
「まだ言うときじゃない」
「娘の名前しか考えてないだろ?」
瑠既が冷やかすと、沙稀は『うるさい』と言いたげな表情を浮かべる。
「当たり前だ」
沙稀が心配を瑠既への怒りに変えてから数時間が経っても、正面の扉は開かれなかった。
時折、あくびをする瑠既とは対照的に、沙稀はまっすぐ扉を見つめている。
「この中に『男』が入ってるんだな~とか……考えてんのか?」
生気が一瞬にして沙稀に戻る。
「あのな! お前はってヤツは……命が関わっているんだぞ。こんなに、何時間もかかって……」
「何時間も、恭良のアソコを見られていると思うと居ても立っても居られないって?」
『フン』と沙稀は鼻を鳴らす。
「心配は無用だ。主治医を始めとして皆女性だと聞いている」
「あれ~? 『命が関わっている』から『性別は関係ない』のかと思ってたんだけど?」
「可能な範囲でいいと大臣に伝えたら、すでに女性で揃えていると報告を受けただけだ」
「大臣も甘いよな~、恭良には」
吐き出すようなため息を瑠既はつき、妙な言い回しをする。
「お前も娘に甘い親にはなるなよ」
「は?」
突飛な発言に沙稀は思わず声を出す。『ん?』と笑う瑠既に、戸惑いを隠さずに返す。
「その言い方……おかしいだろ?」
「俺の勘」
なぜか自慢げな瑠既に、沙稀は笑う。
「お前の勘は当たらなさそうだ」
「そうそう」
身振り手振りをつけるほど大袈裟に沙稀は否定したのに、瑠既はおだやかに笑っている。
沙稀は驚いたのだろう。視線を上げる。
「もう、親になるんだから……そうやって笑っていろ」
気恥ずかしそうに沙稀が視線を逸らしても、瑠既はうれしそうに微笑んでいた。
ほどなくして、頑なに閉ざされていた扉が開かれる。沙稀は呼ばれたが、呆然としていて──瑠既は軽く背を叩いた。
「行ってこい。お前がずっと望んでいたことだろ」
「ああ」
まだぼんやりとしていそうだが、沙稀は立ち上がり足を踏み出す。
扉が閉まるまで見送ると、瑠既は背伸びをして数時間前に歩いた道を戻っていく。
一方、閉まった扉の中では導かれるように沙稀が歩いていた。
恭良はすでに寝台に移動していて、その腕には大切そうに抱きかかえられているものがある。
「沙稀」
呼ばれた声で視線を落とすと、恭良が抱えているのは、ちいさな命だった。
「おめでとうございます。姫様でございます」
医師からの言葉をもってしても、沙稀はちいさな姿をふしぎそうに見つめた。
ふと、恭良が微笑む。幸せが笑い声でこぼれて、ようやく沙稀は意識を取り戻すかのように息を吸う。
「ありがとう」
そっとふたりを抱き締め、沙稀は微笑む。──娘は、庾月と名付けられた。
庾月が生まれてから、沙稀は夜中も起きていることが増えた。それは愛娘の世話を進んでしているからでもあったが、同時に何かを行っていた。
恭良が眠ると寝室から離れ、庾月をそっと抱きかかえて退室する。
広いテーブルの上には、いくつも書籍が重ねられている。ゆりかごに庾月を寝かせ、慎重にテーブルの近くへ移動する。書類の前に着席すると、一冊を手に取りパラリ、パラリと頁は捲られる。
いくら集中していても、数時間おきに起きる庾月の世話をし腕の中で寝かせ、しばらく寝顔を眺めてはまた黙々と読み漁る。
三ヶ月ほど経てば、書籍の他に紙の束。大きな用紙を一枚、また一枚と筆を走らせては首を傾げ、また筆を走らせては書籍を捲り、描き終えれば別の紙にまた筆を走らせる。やがてそれらは敷き詰められるほどの量になっていった。
時に眠りに落ちても愛娘の泣き声で目を覚まし、幸せそうに世話をする。
そんな生活が半年ほど続いた、ある日。さすがの大臣も見かねたのだろう。
「近頃、ご無理をされていませんか?」
朝食の前の時間。沙稀はいつもの通りに書類の処理をしていた。あくびをするわけではないが、大臣から見れば疲労の色が出ているのは明らか。
「していない」
感情のこもらない声。
大臣はあからさまにため息を吐く。
「庾月様がお生まれになってから、あまり寝ていらっしゃらないように感じるのは……私だけですか?」
「昔に戻っただけだ」
半分、嫌味のような返答は、まるで口調までも戻ったようで──大臣はまた、ため息を吐く。
「正解でしたか」
「決まらなくて」
声が重なり、大臣は視線を上げる。すると、沙稀は思い詰めているような表情を浮かべていた。
「何をどんなに読んでも、描いてみても……決まらないんだ」
「何が、ですか?」
大臣にはまったく見当が付かない。
そうしているうちに沙稀の手が止まる。
「俺の……行きたかった場所」
カタンと万年筆が置かれ、沙稀はスッと席を立ち去った。
結局、大臣から見て沙稀の無理な生活は、二年間続いた。
庾月が二歳になると、沙稀は城内を歩くことが多くなった。ひとりの時間も大切にしていた沙稀が、可能な限り家族で過ごすようになっていた。
瑠既と誄が子どもたちを連れてきては、庾月と姉妹かのように仲良く遊ぶ。長女の黎は八歳で、二歳差ずつの彩綺と凰玖も、庾月からすれば充分お姉さんだ。数ヶ月先に生まれた轢は双子のように見えても、庾月が一番ちいさい。
庾月はひとり娘だが、従姉たちのお陰で賑やかに過ごす。──沙稀は幸せを噛み締めるかのように、微笑ましくそんな光景をよく見ていた。
このころから沙稀は、何日も何日も夜中に廊下を歩く。いつも何かを抱えて。
右後方で、ちいさなライトが絵画を照らしている。そのライトを背に浴びて、沙稀はちいさな机の上でメモを書いていた。
短く書いたメモをちいさな机の引き出しに入れる。ここ何日かで運んできた紙の束の一番上に。
沙稀はライトへと視線を送る。一歩、また一歩と吸い込まれるように近づく。
絵画を目の前に見上げ、祈るように瞳を閉じた。
「母上……父上……待っていて、くれますか?」
その呟きは、まるでここに来られるのが最後だと言っているようだった。
轢が三歳になるころ、瑠既が沙稀にこんなことを言った。
「稽古をつけてやってほしい」
沙稀の眉間にしわが寄ったのを見て、瑠既はにんまりと笑う。
「早くはないだろ?」
 




