【55】訃報(1)
恭良の懐妊をまだ世に公表しない間も、羅凍は蓮羅を連れてきた。吉報を第一に伝えたい友人だが、まだ万が一の不安がある時期。無事に産まれるまで沙稀にその不安は付きまとうが、そうでないにしても口に出すには時期尚早だ。
昼間は蓮羅に付き合い、夜は羅凍と手合わせをして何気ない会話をする。浮かれない顔で来た羅凍も次第に表情がほぐれていき、沙稀はよかったと胸をなで下ろす。
そうしてまた、日が変わればふたりを見送り──『親子』の光景にチクリと胸を痛める。
羅凍は蓮羅の前では笑わない。己を戒めているかのように。
蓮羅は、羅凍を厳しい叔父だと思っているのだろうか。
そんな日が何度か繰り返されたある日のこと、克主研究所から思ってもみない訃報が届く。
「忒畝様が……」
少女時代の恭良が唯一、呼び捨てで呼んでほしいと告げた人物がこの世を去った。身分や権力をかざさず、飾り気のないその人物は、沙稀が傭兵をしていたときに知り合ったにも関わらずフランクに話せる友人のひとりだった。
けれど、今の沙稀にとっては訃報の悲しみよりも、目の前の妃への心配の方が上回っている。長年願い、やっと授かった命にも、負担をかけたくないと思ってしまうのは極自然だろう。
ハラハラと恭良の瞳からこぼれる雫。その雫の分だけ乗算した不安が、沙稀に募っていく。
「そんなに泣かないで」
沙稀は恭良を抱き締める。
「だって……」
「恭良が慕った人だと……俺もよく知っている。だけど、今は……今は、自分の体調を一番に考えてほしい」
悲痛な沙稀の声は恭良の耳をすり抜けていったのか──恭良は涙を押し殺して明言する。
「行きたい」
こんなにもはっきりと主張をする恭良は珍しい。目を見開いた沙稀は、恭良に言葉なく訴える。
恭良の瞳はまた、いくつもの涙の粒をこぼす。『だって』と曇った声で言い、
「最後なんだもの……」
と、声を震わせた。
結局、恭良の意見でまとまり、沙稀は少しでも負担をかけないようにと率先して用意を行う。訃報は常に急なもので、特に別大陸に赴くならば急いで出なければ間に合わない。
「行ってくる」
大臣も訃報を知っているとはいえ、耳を疑う。だが、渋々言った沙稀の口調で察したのだろう。うなずく恭良に、再確認をする。
「楓珠大陸までそのお体で……おふたりで行かれるのですか?」
「無理はしないと、約束してくれたから」
沙稀は重く言葉を残し、恭良に付き添う。
「お待ちください! 馬車を! ……用意して参ります」
せめてもの計らいだ。──けれど、大臣に余裕はなく、バタバタと駆けていった。
十分も経たないうちに馬車は正門につけられ、沙稀と恭良は乗り込む。
「お気をつけて」
「ありがとう」
同じ言葉でふたりが返答をしたが、気持ちは正反対の方向を向いていそうだった。
船の中で沙稀は瑠既に会う。恐らく同じように馬車で絢朱まで来たのだろう。
「お姉様!」
歓喜の声を上げた恭良の笑顔に、安堵を見せたのは沙稀。その笑みに、瑠既は苦笑だ。
誄に抱きつきそうな恭良をよそに、瑠既は一歩前に踏み込む。
「本当に恭良には甘いな」
「『最後に会いたい』という気持ちが、わからなくはないからだ」
苦虫を噛んだような表情に一変した沙稀。瑠既はため息をもらす。
「それは俺も、わからなくないけど……」
瑠既は右後方の、姉妹のような誄たちを一瞥する。誄は四度目の出産になるが、恭良は初産だ。しかも、誄とは違い、まだ安定期でもない。
瑠既はあえて小声で批評する。
「俺が沙稀と同じ状況なら行かせないな。何と思われようと」
「俺だって……」
「沙稀!」
恭良の声で瑠既の意見はいなされる。だが、沙稀にはその意識はないだろう。沙稀が反射的に恭良の声で振り向くのは、習性に近い。
「今日は四人で夕食にしよう。楽しみ」
瑠既と誄は、子どもたちを鐙鷃城に残してきたのだろう。長女の黎でさえ、まだ忒畝に会ったことはなかったのだから。
声を弾ませて言った恭良は今にも走り出しそうで、沙稀は足早に近づく。そして、そっと恭良の背に手をあて微笑む。
「ああ、そうしよう」
「久しぶりですね」
誄は微笑ましく沙稀と恭良を眺めてから、瑠既に視線を送る。
瑠既と沙稀の会話を聞いていたかのように、誄は瑠既と視線が合うと、ゆっくりと微笑んだ。
一度、各々の部屋へと向かい、自然と合流する。誄と一緒にいることで沙稀の不安は和らぐかと思っていた瑠既だが、予想は外れていた。いや、瑠既の想像以上に、沙稀の不安が大きいのかもしれない。──沙稀の呼吸が浅いのだ。
瑠既は発端となっている恭良を見やる。しかし、恭良はそれはそれは楽しそうに誄と話していて──かえって沙稀に気づかれ憤りをぶつけられた。
一方で、そういう反応には恭良が気づき、瑠既の苛立ちは倍増するが、ここは我慢するしかない。グッと呑み込む姿を誄はきちんと見ているが、誄は恭良と楽しく話すことがこの場の最善なのだ。
幸い、誄にも恭良にも船酔いなく、食事をしっかりとれ、早くに就寝する。
翌朝にまた合流をし、それぞれに妻を気遣いながら船を降りる。
克主研究所までは時間がかかる。特に、瑠既には嫌な連想をさせる道のりだろう。
「時間はある。ゆっくり行こう」
葬儀が始まるのは十一時。充分間に合う時間だ。
第一に沙稀が賛同する。次に誄。──誄もまた、一年近く前と同じように迷惑をかけるわけにはいかないと反省が含まれているが、沙稀も恭良も、それは知らない。
ただし、誄が賛同すれば、恭良は大人しく言うことを聞くと瑠既は踏んでいて、今回は思うように事態が回り、沙稀を見て安堵する。
それぞれに抱える忒畝への感情は異なる。恭良は尊敬、沙稀は友人、誄は──。
瑠既は、この中で忒畝の死期を察したただひとり。接点はあまりなかったが、深い繋がりは感じている。誄を助けられた恩もある。綺の状況を教えてもらった恩もある。同じ女性を愛した接点もある。
誰ひとりと忒畝への思いを口にしないまま、瑠既は誄と目配せをして、綺を避ける。留のことは、未だ大臣と誄しか知らない。会いたい気持ちがどんなにあっても、沙稀の心情を思えば避けなければならないのだ。
道中は、船の中のような朗らかな雰囲気にはならなかった。一言、誰かが何かを言えば止まらなくなる──そんな空気感で、沙稀だけが恭良の心配をただただしている。お陰で、瑠既は重い足取りにならずに済んだ。
克主研究所に着くと、充忠がいた。一瞬、瑠既を見て驚いたようだったが、沙稀と恭良の手前、口をつぐんだのだろう。
充忠の背後には数人が来客を待機していて、誰かを呼んだ。瑠既と誄の前には、白緑色の髪の毛と柳葉色の瞳を持った女性が現れる。
「お初にお目にかかります。聖水と申します。この度は、遠いところからお越しくださり、ありがとうございます。私がお部屋へと案内いたします」
深々と頭を下げる姿に、瑠既と誄は顔を見合わせる。白緑色の髪の毛は、ふたりにとっては忒畝の象徴のようなもの。親族がいてもおかしくはないが、どこか言い知れぬ違和感がある。
けれど、立ち止まって話すわけにもいかない。沙稀と恭良は、すでに充忠が案内をしている。瑠既たちも行かなければならない。
頭を上げた聖水が首を傾げ、ふたりは失礼な表情を浮かべていたと自覚する。
「あ、ああ。よろしく頼む」
場を繕うように瑠既が返答すると、聖水は充忠のあとを付いていくように克主研究所へと入っていく。
「行こうか」




