【54】そのとき(2)
「それは……何とも返答し兼ねます」
一度言葉を止め、大臣は視線を伏せる。
「大事な話をしたいのです。近々で構いません。ご帰城をお願いします」
大臣が頭を下げる。
「できましたら……誄姫もご一緒に」
「今から行く」
大臣は目を大きく開け、上半身を勢いよく上げる。
「『善は急げ』と言うけど、そういう話も早く聞いておいた方がよさそうだ」
フッと笑い、大臣の重苦しい気持ちを払う。
軽く手を振り、誄を呼びに行く背は『ちょっと待っていて』と大臣には見えた。
数十分後、瑠既と誄は大臣の部屋に着く。奥に瑠既が座り、そのとなりに誄が座った。
大臣が机から一枚の用紙をスッと取り、無言で瑠既に差し出す。
その紙を瑠既はためらわずに受け取ったが、見たことを後悔するようにため息をもらした。
「気にするなって言ったのに」
瑠既は誄に用紙を渡し、大臣を睨む。
「言ったんだろ。沙稀に」
「はい」
瑠既は立ち上がり、そのまま大臣をつかむ。
「どうしてだ! 言わなくったって、沙稀を納得させなくったって! ……次期継承がきてからだって……構わなかっただろ?」
「鴻嫗城を守っていく上で大切なことです。沙稀様もわかっていらっしゃるからこそ、決断されたのだと私は思っています。『次期継承』がきてからでは……内戦で全滅、なんてことにもなり兼ねないのです」
冷たい言葉と視線。瑠既は汚い物を投げるように手を離す。
しかし、大臣はふらつかない。年齢を感じさせないほど、すぐに体勢を戻す。
「城を守るとは……そういうことです。仕来りなどはそのためにあります。上位になるほど、細かく厳重に定められているのも、そのためです。崩せば、堕ちるのです」
「それは、父上の生家を言っているのか?」
瑠既の問いに、大臣は深く息を吸った。
「そうですね……それで涼舞城は堕ちたのかもしれません」
「あ、あの」
ちいさな声で割り込んだのは、誄。
「私は……沙稀様と恭姫になら……この子を迷いなく託せます」
「誄姫」
瑠既は耳を疑うように誄を見る。
誄は、腹部を愛おしそうに触れたまま続ける。
「おふたりは、今まで私たちの子をかわいがってくれています。私は、その姿を間近でよく見てきました。それに、私は昔からおふたりを尊敬しています。そのおふたりの子として迎えていただけて、延いてはおふたりの幸せのためにもなるのなら……」
大臣も瑠既も必死に話す誄に固唾を呑む。
「それにもし、この子を養子に迎えたあと、おふたりが新しい命を授かったとしても……おふたりなら、変わらずにこの子を愛してくれると思うんです」
『ね?』というように、誄は腹部に微笑みかける。
「その……怒鳴って、悪かった」
『恐がらせた』と瑠既は謝る。
誄は首を横に振り、
「瑠既様の大事な方ですから、沙稀様は。それに……世良様にとっても」
と、やわらかい笑顔で目の前のふたりも包み込んだ。
およそ二週間後の同じ場所には、三十一歳になった双子がいた。奥には沙稀が座り、その向かいには瑠既が座っている。大臣は、扉を背にして両側に双子を見る。
テーブルの上には、二枚の同意書。同じ文面がそれぞれの前に一枚ずつある。
「では、沙稀様、瑠既様。今度、誄姫が出産されたお子様がご息女であれば、沙稀様と恭良様の子として迎える……ということで、よろしいですね?」
「はい」
双子の声が重なる。合わせたつもりはまったくないが、視線の上がるタイミングまで同時になる。
声が静まっていたのは沙稀。瑠既は正反対の明るい声だった。沙稀は信じられないというように瑠既を見たが、見られた方は満足そうに笑みを返す。そして、我が子を養子に出す手続きというのが嘘かのように、万年筆を手に取る。サラサラと書かれたそれは、沙稀の前に出される。
片や、沙稀は目の前にある用紙にまだ手を触れていない。
瑠既がスッと、沙稀の目の前に置かれた用紙を奪っていく。
沙稀の視線が追いかけるそれには、またサラサラと万年筆のインクが沈んでいく。
先ほど瑠既が出してきた用紙を手繰り寄せ、万年筆に手を伸ばす。震えそうな手を力で抑え、沙稀はおもむろにサインを書こうとした──そのとき。
「大臣! 待って」
突然、部屋の扉は開かれた。沙稀が反応する声とともに。
「恭良様」
大臣の声とほぼ同時に、沙稀が立ち上がる。手から落とすように、万年筆が離れた。恭良は、沙稀へ一直線だ。
正面から恭良を受け止めた沙稀は、
「どうしたの?」
と、訊ねる。
恭良の表情はとても不安で悲しげに見えるほど、眉が下がっている。何の手続きをしているのかは、恭良も承知しているはずだ。だからこそ、沙稀の心配は過剰に膨らんでいることだろう。
けれど、恭良の口から出た言葉は、この場にいる誰もが驚くものだった。
「来てくれたの!」
沙稀は恭良の言葉に、より耳を傾ける。
恭良の瞳には、急激に泉が広がっている。
「赤ちゃんが……来てくれたの!」
「本当に?」
信じがたい発言に沙稀が問う。
恭良は瞳からはいくつもの雫を落とし、うなずく。
驚きのあまり、表情がうまく動かなかったのか。ゆっくりと微笑みに変化した沙稀は、喜びを噛み締めるように恭良を両腕で包む。
恭良は、しばらくそのまま泣いた。
大臣と瑠既は互いを見、どちらともなく拍手をする。
「おめでとう」
「おめでとうございます」
瑠既と大臣の祝福で、沙稀の意識は戻ってきたのか──意識的に沙稀は恭良から離れる。
「ありがとう」
弾んだ声は恭良だ。沙稀は照れくささのあまり素直に礼を返せないのか、ちいさく笑う。
けれど、瑠既と大臣には、それで充分な返事だったのかもしれない。
「さてと」
瑠既はテーブルの上にある二枚の用紙をビリビリと破る。その様子を見て、沙稀と恭良は笑い合う。
ただ、それは束の間。沙稀の意識はしっかりとしてきたのか、
「しばらく出歩き禁止」
と、不機嫌そうに恭良に忠告をした。
恭良が目をパチクリとさせた次の瞬間、沙稀は恭良を抱き上げる。
「瑠既、大臣、振り回す結果になってすまなかった。ふたりには……感謝している」
沙稀は言葉を言い残すように恭良を連れて退室していく。
パタリと扉が閉まり、瑠既は声を上げて笑った。
「過保護だねぇ。軽い軟禁だろ、あれ」
「本当です」
瑠既の言葉に、大臣は笑い声混じりで返答する。
「うれしそうだね」
「幸せそうで、いいではないですか」
一方、退室した沙稀は、更に不機嫌を露わにしていた。
「さっき、走ってきたでしょう?」
不機嫌な声に恭良は見上げる。
「ごめんなさい」
その声は反省を伝えていない。しかも、笑顔だ。沙稀が腕の中に視線を落とさずとも、右側の一面のガラス越しにその笑顔がよく映っている。
だが、沙稀の機嫌は直らない。
「本当に反省している?」
恭良はにっこりと笑う。
「しています」
その声にも、しっかりと笑い声が混ざっている。
ガラス越しにも恭良の表情はキラキラと輝いて見える。その表情には、さすがの沙稀は照れ、
「もう走るようなことはしないでね」
と、懇願をした。




