【54】そのとき(1)
「俺が剣を握ったのは、三歳だった」
鴻嫗城は姫が継ぐ城。剣を習得する慣例はない。それなのに、沙稀が剣を手にしたのは、瑠既が受け取りそうだったからで。体の弱い双子の兄を庇ったようなものだった。
ふと昔を思い出してしまったと、沙稀は切り替える。
「また、いつでも来て」
「ありがとう」
「俺が見られるうちに、見たいから」
羅凍が一瞬止まった。そして、眉を下げ笑う。
「まだまだ、いつでも見てもらえるでしょう? まぁ、沙稀の時間があれば、だけど」
沙稀は『ああ』と相槌のように言い、
「時間なんて、必要なだけ空けるさ」
と、返す。
『そろそろ寝よう』とその場を切り上げ、羅凍と別れる。静まった廊下をひとりで歩き、つい、弱音が出て羅凍を困らせてしまったと反省する。
──自覚している以上に、不安なのか。
心を整えて寝室へと向かう。楽しかった時間を思い、旧友に感謝しながら。
翌朝も晴天となった。沙稀は正門の前まで同行し、客人を見送る。
「気をつけて」
「はい」
会釈をした蓮羅に、羅凍が囁く。
「あいさつはきちんとしなさい」
四歳だ。長旅と慣れない場所で一日過ごした。来たときは自覚していた己の地位も、疲労で頭の片隅に追いやられても仕方ない。いや、来たときが立派すぎたのだ。
羅凍の声に蓮羅は見上げる。だが、それは一瞬で、硬い表情の羅凍から沙稀に視線を移し、蓮羅は深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
蓮羅と同じように沙稀は頭を下げる。
羅凍は驚いたようだったが、沙稀にしてみれば蓮羅はそれだけ大事な来客だったということだ。
『ありがとうございました』と、羅凍が感謝を返す。
蓮羅がパッと子どもらしい表情で笑い、クルリと沙稀に背を向け、羅凍に『行こう』と言った。
それに『はい』と返した羅凍は、沙稀に会釈をして背を向ける。
かわいらしく笑う子どもに対し、羅凍は笑みを返さなかった。
──いつになったら……その日はくるのだろう。
ふたりの背を見送る沙稀は、悲しみを覚える。羅凍は、幼子の名を一度も呼ばなかった。
朝食を済ませてから稽古場へ行くまでの一時間ほど。大臣と書類の処理を行うのが沙稀の習慣になっていた。
紙を捲る音と、ペンを走らせる音が流れていくだけの空間。無言でいても互いに苦ではなく、言葉を交わさない日も多い。それでも、阿吽の呼吸で物事が過ぎていく。
ただ、今日は──静かな空気を軋ませるように、沙稀が口を開いた。
「養子を……迎えようと思う」
大臣は一瞬動きを止め、うかがうように沙稀を見る。しかし、沙稀は何事もないかのように業務を行っている。
「わかりました」
パサリと大臣が書類を動かす。
そうして、大臣も業務へと集中したのか、またリズムよく書類にインクを刻み始める。
恭良と話をまとめてから一ヶ月、沙稀は踏ん切りがつかなかったのか大臣に言い出せなかった。
伝えてしまえばこれでよかったと、ふしぎと心のつかえは流れていった。
定刻になり、沙稀は稽古場へと足を運ぶ。剣士たちと軽い手合せを終えると、自主練習とした。
「すまないが、あとは頼む」
年長者に一言告げると、沙稀は珍しく席を外す。
稽古場から城内の深部に続く道へと入り、一直線に宮城研究施設へと向かう。大臣に伝えたと、恭良に言わなくては落ち着かなくなってしまったのだ。
けれど、到着した先に、恭良はいなかった。
──あれ?
何人かの研究員に声をかけられ、沙稀は軽い笑顔とかんたんな言葉を残し、宮城研究施設を出る。
凪裟が嫁いでから、恭良が統括するようになったが──まさか、研究員とうまく付き合えていないわけではないだろう。恭良の人見知りは激しいが、周囲が恭良を気遣うはずだ。だから、それなりの付き合いはできているはず。
では、恭良はどこにいるのか?
誄とお茶をするなら、午後だろう。絵画を描くにしても、公の活動の時間外にするはず。
沙稀は恭良のいそうな場所に見当を付けながら歩き、自室へと寄る。
白を基調としたレースが可憐さを引き立てている部屋――そう、恭良の自室だ。沙稀は彼女の姿を探す。
寝室まできて、やっと沙稀は彼女を見つけて安堵する。
「ここにいたんだ」
ドレス姿のままベッドの上に座り、両手を胸にあてていた。恭良は沙稀を見るなり、左手をゆっくりと下ろす。
「沙稀……どうしたの?」
「どうって……恭良こそ。どうしたの? どこか具合でも悪い?」
沙稀は恭良のとなりに座る。
恭良は首を横に振った。
「ううん。大丈夫」
正直に話さないとは、何ともらしくない。沙稀に何とも言えないもどかしさが湧く。沙稀に遠慮をするなど、恭良は普段しないことだ。
ふと、恭良が沙稀の頬に触れ、間が埋まる。
「私を探していたんでしょう? なぁに?」
体調の悪さを隠しているのだろうか。恭良の微笑みが弱々しい。
いや、沙稀の不満を感じ取っているのかもしれない。
「大臣に……伝えたから……」
「そう」
実にあっさりとした返答。
沙稀は恭良を抱き寄せ、頬と頬を合せる。ふと、恭良の腕が沙稀の背に回った。
「ごめん」
沙稀の腕に力が入ると、恭良の力が抜けた。無防備な受け入れに、沙稀は守るように抱き締める。
「俺じゃ……なかったら……」
言葉が詰まった沙稀の背に、恭良の腕がやさしく纏わる。
「沙稀以外との子なんか、私は産まないわ」
沙稀は息を呑んだ。考えれば当たり前のことなのに、恭良がどう考えているのか見えなくなっていたと思い知る。
少し離れ、まじまじと恭良を見る。──恭良には、驚いているように見えただろうか。恭良が楽しそうに笑う。
固まっていたような沙稀の頬から力が抜けた。ふと、恭良がにこりと微笑み、そっと唇を重ねる。
一秒か二秒、停止したかのような時間はすぐに動き出す。
「沙稀と一緒に育てられるなら……うれしい」
恭良は甘えるように、沙稀の首元に顔を寄せる。
「うん……俺も」
どちらともなく抱き締め合い、頬を寄せる。言葉ではない分かち合い。これからも、ともにいると伝え合う。
そのころ、大臣は瑠既を訪ねていた。
門の手前で瑠既は大臣に気づき、手を止める。庭で剪定をしていたが、心からおだやかさが去っていった。変わりにザラザラとしたものが込み上げ、胸がざわつく。
これまで大臣がわざわざ鐙鷃城に来たことはない。ふと、以前、大臣が叔を迎えに行っていたと思い出す。
よくない予感というべきか、よほどのことかと瑠既が覚悟をするには充分だった。
幸い、花好きの義母が城内へ戻ったところだ。ゆったりとした時間を過ごすのが好きな義父は、誄と一緒に孫たちの面倒を見ているだろう。
瑠既は大臣よりも先に口を開く。
「何か……よくない知らせ?」




