【53】無実の犠牲(1)
コツンコツンと響く足音だけが、時を進めているような錯覚に陥る。
三方向にあるちいさなライトに背を向け、リラの髪が暗闇に呑まれようとしている。
結婚して三ヶ月もしないうちに回数の合わない誕生日を迎え、もう三十歳になった。結婚後の変化は、彼には大きい。
眠ることに慣れた。シャワーを浴びるのも同じ。尚且つ、以前のように過度にシャワーを浴びなくなっている。恭良のお陰だ。──感謝している。深い傷を、聞かないで過ごしてくれたことも。
ふと、人の気配に足を止める。それは相手も同じだったようで、一定の距離が保たれた。
「恭良様と別れたい……そう言いたそうですね」
「思っていない、そんなこと」
大臣の声に沙稀は即答だ。
「そうですよね。鴻嫗城を継いだのは沙稀様ですし、仮に恭良様が別の方と再婚をして子宝に恵まれても、それが恭良様の幸せとは限りませんしね」
「くどい」
「では、どうして半年近くも恭良様と離れていらっしゃるのですか?」
大臣の言う通りだ。
偽りの王の部屋に入った日以来、沙稀は恭良と過ごすのを避けるようになった。いつしか、別々の部屋で眠るようになっている。
この場を恭良は知らない。いや、城内で恭良の知らないところなど、沙稀からしてみれば山ほどある。
今日は運が悪かった。この場は大臣が知っているし、立ち入れるのだから。
「ご結婚されてからは、もう目を覆いたくなるほどあ~んなにベタベタベタベタされてらっしゃったのに。何年も、毎日毎日……覚えていらっしゃいますよね?」
重ねた言葉を早口で発した物言いは、まるで嫌味のよう。沙稀は大臣を睨むように見ているが、この暗がりでは大臣から鮮明に見えないだろう。
背からの光が、大臣の微笑みを浮かばせた。
沙稀は心を見透かされそうで視線を逸らす。
「重圧……ですか?」
大臣は昔からこうだ。沙稀が感じる重荷を感じ取る。教育係としては甘いのではないかと言いたくなるほど、沙稀を心配するのだ。そう──思い出せば、沙稀が深い眠りから目覚めたとき、大臣はどれだけ心を鬼にしたのだろうか。
「予想はしていた」
ふしぎなもので、スルリと言葉が出ていく。
「こうなることを?」
意地を張っても仕方がないと沙稀はうなずく。
「昔、考えたことがあった。俺の子が産まれたとして、その子はクロッカスの色彩を持って産まれるのかと……そのときに思った。そもそも俺は、子を授かれるのかって」
持って生まれた色彩が変色し、感じていた不安。その不安は成長していくにつれ、身体に及ぼした影響について考えるには充分だった。
「だから、恭良を好きだと気づいてから……理由を色々と被せるのは、都合がよかった。結婚しないことを選び、剣士として一生を過ごすのなら……それでもいいと思っていた」
誰にも言うつもりがなかったことを言い、沙稀は居心地の悪さを感じる。それは大臣も似ていて、困惑している様子だ。
大臣は年を取れば取るほど、沙稀の幼いころへと戻っていっているようだ。これもまたふしぎで、懐かしいと、どこか遠くから見ている感覚に陥る。
「では、なぜ?」
「好きな人と結ばれることが叶うのなら……そんなに幸せなことは、ないでしょう?」
「沙稀様も……人だったのですね」
「失礼だな」
混乱しているような大臣に、沙稀は笑う。歩を進めれば、大臣はおだやかに微笑んだ。
「いえ、うれしいです。沙稀様がそんなに葛藤をしていたなんて。本当に生身の人だったんだと、安心しましたから」
「あのさ、どう見られていた?」
沙稀は苦笑いだ。
大臣は沙稀が通過するのを待ち、後ろへ付いてきた。大臣はこの先に用事があったのではなく、沙稀を探していたのだろう。
「そうですね、もっと冷酷かと」
沙稀はちいさく笑う。
外部や城内の者と同様に、大臣からも誤解を受けていたのかと思えば、おかしい。
「はい、では。恭良様をこれからも大切になさってくださいね」
「大切にしているよ」
「泣かせないでくださいね」
沙稀はうなずく。
「そうしたい」
無言で歩いたふたりだが、廊下へと出る扉を開ける前、
「恭良と向き合ってくる」
と、沙稀は言い、大臣に会わなかったかのように歩いていった。
大臣は廊下に出なかった。
沙稀の姿を見送り、暗がりへと戻っていく。
先日、瑠既から四人目を授かったと聞いた。
沙稀も聞いているはずで、どう受け止めたのか。大臣は──これが最後の機会ではないかと、祝い事とは程遠い感覚で受け止めていた。
三方向からのライトの明かりに照らされながらも歩き、絵画の前で止まる。見上げて、何度もこうして瞳に映してきた絵画をぼんやりと眺め、幼かったころの沙稀を思い出す。
『俺がやる』
そう言って、幼い沙稀は自ら剣を手に取った。体の弱い瑠既の分まで自分がやるのだと、瑠既を守るように言った。
剣を手に取ってからは尚更だった。母の期待に応えたいと思っていたのだろう。
自らの意志で考えるよりも『先にあること』を選んでしまう節が沙稀にはあったのだ。ある種の癖のように。
思い返してみれば、空白の時間を経たあともそうだ。鴻嫗城に仕えていたときも、沙稀は幼少期と変わっていなかった。
大臣は『沙稀は弱音を吐かない』と見ていたし、そう思っていた。
しかし、そうではなかったのだ。沙稀はただ、幼いころから弱音を吐けなかっただけだった。
──きっと、独房に入れてからは尚更……。
大臣は胸が痛む。
甘やかしては沙稀が自ら動けなくなると罵声を飛ばし続けた日々を昨日のように思い出し、絵画の紗如を見つめる。
──紗如が生きていたら、何と言っただろう。
人見知りの瑠既を庇うように、身につけてしまっていた虚勢。
弱音を吐かない、子どもらしくない内面に大臣が気づいて、幼少期はあんなに心配をしたのにと悲しく過去を振り返る。
──剣を握ると決めたときは、どんな気持ちだったのだろう。私たち……いや、私は沙稀に間違った道を歩かせてしまったのかもしれない。
沙稀が肉を食べられなくなったのは、彼の素直な反応だったのだろう。本人は気づいていないだろうが。
ため息がもれた。
大臣にとっては剣を握ることが呼吸をするのと同じくらい自然で、当たり前なことだった。
遅い後悔だ。業務的に接しすぎたのかもしれない。
──だからと言って……。
大臣が自らの思いを優先させることは、あってはならない。過去も、これからも。
絵画のふたりを、大臣は無言で見つめる。
沙稀から養子の件に関して、まだ返答を受けていない。『このままでいい』と思う反面、『早く了承の返答を受けていれば』とも反する思考が交錯する。ただし、わかってはいるのだ。前者が私情だと。
大臣が導くのは、一択しかない。
一方で、沙稀は恭良の部屋に着いていた。レースの天蓋が覆うベッドに、座る後ろ姿がうっすらと浮かんでいる。
彼女はまだ起きていた。
沙稀は硬い表情で呼びかける。
「恭良」
避けてきた後ろめたさから、笑顔が作れない。
ふと、フワリとレースが揺れた。
「沙稀!」
沈むような声で呼びかけたにも関わらず、彼女は揺れたレースの隙間から踊り出て、喜びの声を上げる。沙稀を捉えた瞳は、キラキラとしていて──昔から変わらない満面の笑みを浮かべ駆け寄ってきた。
沙稀にはそれが夢のように見え、時が止まったかのように動けなくなる。
フワッと恭良が飛び付いてきた。
腰にギュウッと腕が回ってきたと、右側にも伝わってくる。
沙稀は恭良の両肩に触れ、感情を抑えられずに唇を食む。そうして右手を恭良の背中に回し、抱き寄せる。
「んっ」
恭良には予想外の出来事だったのか。驚いたように唇が離れた。
「沙稀?」
頬を赤らめ、問う姿は何とも愛らしい。左手でそっと恭良の髪を触れ、耳に顔を近づける。
「恭良と離れすぎて、充電が切れそうなんだ」
甘く囁くと、ガクンと恭良の力が抜けた。片手で彼女を支えながらゆっくりと座らせ、沙稀は屈む。
今度は彼女の頭に両手を回し、頬に滑らせ再び唇を落とす。想いが伝わるように注ぎ続けていると、次第に恭良の手が沙稀の耳に触れた。
耳の後ろから徐々に頭上へとのぼる感触に、高揚感が湧く。
彼女が呼吸の合間に名を呼んだ。
何かを言おうとしている様子に、沙稀は頬を首筋まで移動させる。深く息を吸い、耳たぶに触れるか触れないかの距離で囁く。
「何?」
 




