【50】回想2(1)
そういえば、忒畝が口にしない物を珍しく持ち、充忠の部屋を訪ねてきたことがあった。
あれは、杏露酒だった。『酒の弱いコイツが』と、充忠は苦笑いしながら部屋へと招き入れたのが印象深い。
「お前さぁ……突然持ってきても、生憎ソーダ水はねぇぞ」
「大丈夫。自分の分くらいは持ってきた。」
『あと、多少のつまみも』なんて言いながら、テーブルの上にいそいそとちいさな袋から取り出した数々のつまみを並べる。
「そんなわけで悪いけど、充忠はロックで飲んでね」
「お前、悪いと思ってないから自分の分だけソーダ水を持参したんだろ?」
「さすがは充忠。よくわかってくれているね」
忒畝は笑う。──充忠はこういうときの忒畝の態度を、『悪意なき悪態』といつからか名付けていた。
テキパキとグラスに氷を入れた忒畝が、杏露酒を並々と注ぐ。その動作は酒を入れているというよりも、実験の様子に近い。
「馨民と、うまくいってるの?」
「うまく……ねぇ」
当時、充忠は二十四歳になろうとしていた。
結婚してからの充忠は、次第に無口になっていた。ただ、それは馨民に対してで、結婚後の変化と言えなくもない。熱が冷めたわけではなく、焦燥感に近い。理由が明確な分、質が悪いと自覚していた。
充忠は己に責があるのを認めていて、けれど、それを馨民につつかれ──売り言葉に買い言葉になり、馨民が部屋を出ていって一週間が経っていた。
ただし、夫婦で同じ職位にいれば、否が応でも仕事中に顔を合わせる。一方的に出ていかれても仕事だと割り切り業務的に話したが、ぎこちなさを忒畝に気づかれたのか。──それとも、馨民が忒畝に話をしたのか。どちらかはわからないが、忒畝がわざわざこうして来たのだ。知らないはずがない。
当時の充忠には後ろめたいことがあり、できれば忒畝にも話したくはなかった。
「それなりに、かな。まー、でも、何ていうか……昔ほど仲がいいわけでもないし、幸せでもない」
だからと言って、充忠には結婚イコール幸せという、幸せの方程式もない。現実に幻滅することもなく、こういうものと割り切ろうとしていた節があった。
「後悔している?」
杏露酒が並々と注がれたグラスが充忠に差し出される。
──嫌がらせだろ、これは。
充忠は決して酒に弱いわけではない。だが、忒畝自身が好んで口にしない物を並々と注がれたのだ。いい気がしない。
一方の忒畝は、もうひとつ用意した氷入りのグラスに杏露酒を少しだけ注ぐと、ソーダ水を開けて注ぎ始めた。
「早く仲直りすればいいのに」
「別に、喧嘩したわけじゃない」
ほぼソーダ水でグラスを満たすと、忒畝はソーダ水にふたをする。
──それは、ソーダ水と同義じゃないのか。
充忠が忒畝の行動を冷静に見ていると、グラスを持てと手で煽ってくる始末。そうして、充忠は杏露酒を喉に通す。
「誰か、好きな子でもいるの?」
「いや」
「なのに他の子がいるんだ」
カラカラと氷とグラスが当たる音が響いた。
忒畝が『口にする物じゃない』と言いたげな表情で、つまらなさそうにグラスの中の液体を混ぜている。その音が止まって遠心力が落ち、音が鳴らなくなったころ、充忠は観念して口を開く。
「丞樺のことか……」
「あ……本当にいたんだ」
「知ってたんだろ」
「いや、言ってみただけ……だった。『誰か』いそうだったから」
軽い口調でそう言ったあと、忒畝は個人名を聞かなかったことにするかのように、グラスに口をつけた。
充忠は長いため息をつく。
すると、忒畝はグラスを置き、今度は充忠にまた飲むように勧めた。
勧める前に、下戸の忒畝が飲んだのだ。充忠は飲まざるを得ない。充忠が今度はグイグイと飲むと、忒畝はつまみを次から次へと開け始める。
「いつくらいから?」
ガサガサと音が響く。音に紛れるように、充忠は言葉を出せた。
「一年……くらいかな」
『ふ~ん』と、忒畝が無関心な返答をする。充忠はいささか腹が立ち、グラスの中身を一気に飲む。
「馨民への気持ちは……変わってない」
「じゃあ、どうして?」
つまみを食べやすい状態にした忒畝は、空のグラスに手を伸ばす。
「拒まれたんだよ。だから……」
杏露酒が注がれる音が響いた。
コツンと、再び充忠の前に置かれたグラスには、また並々と杏露酒が注がれている。
「結婚する前は……お前のことを想っていたのを知っていた。でも、俺と結婚してくれるって了承してくれてからは、馨民も俺と同じ気持ちだって……思ってた」
充忠がグラスに触れたとき、忒畝が意外な言葉を言う。
「子どもがほしいって……聞く?」
「いいや」
「僕は、よく聞くんだけどな」
忒畝はポテトチップスに手を伸ばし、息抜きに本を読みながら食べているかのように頬張る。何ともちぐはぐな光景に、充忠は呆気にとられる。
すると、『食べないの?』と言うように忒畝はポテトチップスを差し出した。
要らないと、突き返すのも──と、妙な間が開いて、一枚だけ取る。
「それは……」
「充忠との子どもがほしいって聞くよ。早く『お母さん』って呼ばれてみたいってさ」
テーブルの上に忒畝は菓子袋を置くと、今度はグラスに手を伸ばし一口飲んだ。
「あ~あ、難しいね。ふたりとも、想い合っているのに」
まるで自分は無縁だと言っているように充忠には聞こえ、
「お前、そんな言い方するなよ」
と、思わず言う。
忒畝が横目で見た。目が合い、忒畝は充忠に向き合う。グラスを掲げ、大きく口を開く。
「じゃあ、ちゃんとふたりで、きちんと幸せになってね」
酔いが回り始めている様子の忒畝に、充忠は笑う。けれど、忒畝にはその自覚がまったくないようで、『何~?』と充忠に問う。
「ほら~、乾杯だよ~! 乾杯。ね? こうやってグラスを上げたら、乾杯するでしょ~?」
「はいはい」
カツン
ちいさな音が鳴る。
充忠は口をつけようとしたが、一気に飲み干そうとする勢いの忒畝を慌てて止めた。
グラスが忒畝の手から滑って落ちた。
グラスの割れる音と、液体の飛び散る音が響いたが、充忠は忒畝を支えるのに手一杯で──支えて、忒畝が軽くなったと知る。
ぐったりしているのに、想像以上に軽い。腕の感覚を信じたくなくて、疑いの眼差しを注いでいると、
「既婚者は卑怯だ……」
と、本音のような寝言がもれた。
忒畝を部屋に運び、迷ったが馨民に電話を入れる。
「忒畝が酒を飲んだから、面倒をみてやって」
要件を言えば馨民はやってきて──充忠は入れ違うかのように出て行った。
生贄のように妻を置いてきて、心がグチャグチャになる。
結婚する前と、気持ちは変わっていない。でも、結婚後に助手の丞樺に好きだと告白されて、拒めずに受け入れてしまった。それからも気持ちはまったく変わらないのに、丞樺との関係を終わらせることができない。
関係を終わらせた誄を誠実だと思う反面、誄はあの忒畝がボロボロと泣くほど傷付けたのだと思うと許しがたい。ただ──誄以上のことを充忠がしているのだと、忒畝の寝言がグサリと響いた。
いつから、どうしてこんなことになったのかと充忠は悩む。丞樺に告白されたのが結婚する前だったなら、充忠はしっかりと断れたはずだと振り返る。
結婚する前に、忒畝に押し切られる形で休みを取り、馨民とふたりで行った場所があった。克主研究所の森を抜けた西部に位置する神如だ。かつて女悪神が堕ちた地であるとされ、聖なる場所とされてきた場所。現在は静かに、ひとつの教会がある。
教会の裏には、ちいさな墓地がある。充忠の養母、望緑が眠る墓地が。知ったときは駆け付け、それから足を運べなくなっていた場所だった。
「ここに?」




