【49】回想1(1)
充忠は空を見上げて、はしゃいだような忒畝を思い出す。──それは、忙しい最中の出来事で、日常的な会話を交わしていたにすぎない光景。いつまでも、充忠が続くと思っていた『日常』だ。
「こら、忒畝。こぁんな忙しいときに、どこへ行くんだぁ?」
研究所内を抜け出し、どこかにでかけようとしている忒畝を充忠は見つけた。
克主研究所の設立六百年を記念した祝辞のおよそ一年前。あと一時間ほどで、忒畝主催の講義が始まろうとしていたときだ。
充忠の声に驚いた忒畝は振り向き、慌てて充忠に近づく。
「だ、大丈夫。ちょっと、そこまで……だよ。すぐに戻るから。ね。お願い! 今日じゃないと駄目なんだ」
忒畝は両手を合わせる。小声で控え目な姿は、充忠の様子をうかがうものだ。
充忠は目を細め、忒畝を見つめる。だが、懇願する様子は変わらない。
「ったく、言い出したら聞かねぇかならぁ。お前は。……早く帰ってこいよ」
ため息交じりで返答する。充忠自身、忒畝には甘いかもしれないと、多少の悔しさを込めて。
「はい」
公認の許可をもらったかのように、忒畝の表情は無邪気なものへと変わる。ただ、次の瞬間には駆け出していて。一度振り返り、充忠へ手を振ると、すぐに姿は見えなくなった。
──あの日は、悠畝前君主の誕生日だった。
生きていれば四十五歳。
いつも忒畝は、『生きている』父に会いに行くようだった。忒畝がいなくなってから数日しか経っていないのに、妙に懐かしい。
ここ何年もやつれたと言ってもいいくらい痩せていたのに、思い返す姿は、どれも溌溂とした姿だ。
いくつもの数えきれない言葉と、様々な表情が充忠の中に残っている。
「ここが、充忠の居場所になることはないの?」
忒畝と深い友人になったきかっけの言葉であり、いつになく真剣な瞳で言われた言葉だ。
このときの忒畝はまだ十三歳で、充忠は忒畝にいい印象を持っていなかった。
この日は充忠の記憶の中で、最悪な一日だった日だ。
養母が亡くなったと知った日でもあり、初めて名付けられた名は『実忠』だったと知った日でもあった。
充忠は三歳で養母、望緑に引き取られたと聞いていた。ただし、それ以前の記憶はまったくない。物心がついたと自覚しているのは四、五歳だったか。そんな折に、望緑からわずか十六歳で養子縁組を組んだと聞いたのだ。
引き取られる前にいたという施設に一度行ったとき、懐かしい場所とも思えなかった。けれど、施設の職員は、あいさつをしただけで『こんなにしっかりした子になって』と、何人も泣き出したのを覚えている。
当たり前のように望緑を実母と思っていた充忠のショックは大きかったものの、それは自立心へと変わった。そうして無事に克主研究所に研究生として合格し、懸命に学んできていた。
養母が亡くなったと聞いたときの充忠はまた十四歳で──研究員の試験まではまだ数年あり、給与の支給はされていなかった。むしろ、学費を納め、生活費が必要だった。それを知ってか、養母の両親は、充忠に養子縁組の解消を言い渡した。
金銭的なことよりも唯一の家族が亡くなったこと、帰る場所がなくなったことに絶望していた当日。フラフラと廊下を歩いていると、忒畝が声をかけてきた。まっすぐに、充忠を見て。
「ここにいなよ。充忠が嫌でなければ。充忠には、ここにいる権利があるのだから」
忒畝には無邪気に笑っている印象が強かった。当時はさほど仲がいいと思っておらず、かえって仲がいいと思っていた仲間たちほど、近寄ってこなかった。
充忠はこのときに知ったのだ。忒畝は、人の痛みを敏感に感じてしまうほど孤独を知っていて、それを周囲に隠すのが異常に上手いだけだと。いや、思い知らされたのだ。
「よければ、また……ゆっくり話そう?」
『嫌なことは話さなくていい』と言ってくれているようで──この日を境に、充忠の忒畝に対するイメージは変わった。馨民とよくいる忒畝に、充忠から何かと話しかけるようになり、一緒にいるようになった。
忒畝は色んな表情を見せた。
あるときは驚いたように充忠の話を聞き、控えめに『そうなんだ』と言った。『充忠が話してくれて、うれしい』と笑った。
またあるときは、充忠に同調して悲しみ、『辛かったね』と言った。また、あるときは楽しそうに笑って、『充忠が悪いんじゃないの?』と冗談を言った。
多くの時間を共有した。
長い時間であったはずなのに、またたく間だった。
忒畝との思い出は、楽しい思い出ばかりでもない。ふたりとも声を荒げて喧嘩をしたこともある。
「充忠には、僕のことなんかわかるわけがない!」
珍しく忒畝が感情的になったのは、十五歳になる前だ。──充忠にとっては、大切な思い出。
印象深い日はまだまだあって、あれは誄が克主研究所に来るようになったと気づいたころだ。
誄は、週に一度か二度来ていた。対応は忒畝が担っていたというよりも、秘密裏にしていたというべきだろう。進捗の共有がなかった。立場的にもあらゆることを共有してきた充忠にとっては、違和感だった。
それからだ。
忒畝が頻繁に体調を崩すようになった。そうして、充忠は気づく。誄が帰った当日は、忒畝が動けずに必ず寝込んでいると。
誄は知らないのだろう。それが充忠には、なぜか腹立たしかった。
「まぁた、無理して」
忒畝は黙って休んでいない。だから、充忠はわざと忒畝の自室に入り込む。
「お前、体調悪いんだろ。俺がやるから寝てろ」
「過保護だね」
あははと笑う忒畝だが、体調の悪さが滲み出ている。
「お前、体重落ちただろ」
「え?」
忒畝は気づかれていないのか思っていたのか。それとも──忒畝自身が気づいていても、気づかれないことを願っていたのか。
充忠はジッと忒畝に視線を送った。よくよく見れば、瞳の色が本当の色になっている。
目の錯覚かと自身を疑ったが、凝視すればするほど、忒畝が抱えているものを告げてくれたときに見せた、アクアだと確信した。
「おかしいな。僕はどちらかといえば太りやすい方なんだけど」
あっけらかんと言う忒畝の声を、わざと充忠は遮る。
「あの人が来るようになってからだ」
これまでの忒畝なら、一度外してもすぐにコンタクトを戻したはずだ。恐怖の色だと言い、本当の色を家族との思い出で覆った。それなのに、いつからだったのだろう。恐怖心をわざわざ抱える方を忒畝が選び、家族の思い出を手放したのは。
そこまで想う相手なのかと、充忠は感情の深さを感じた。
充忠の苛立たしさ、歯がゆさが忒畝に伝わったのか。忒畝は口を閉ざした。だからこそ、充忠は追い打ちをかけるように言う。
「お前の体調不良が増えたのは」
忒畝は言い返さなかった。隠したいことがある──と感じたのは、直感だ。何を隠したいのか。直接聞くほど、充忠は野暮ではない。
「今度、来たら……俺が対応したって差支えはないだろ?」




