【45】歴史を変えようとするとき
「瑠既と客間で待っていて。誄姫が意識を取り戻したら、内線を入れるから」
誰であれ、助けを求められたら忒畝は尽力する。『誰か』は関係ない。医師の資格を持つ者としての、当然のことをするだけだ。
充忠が青ざめた瑠既を連れて出ていくと、横たわった誄と向き合う。一通りの診断と軽い検査をし、『軽い貧血』と忒畝は結論づけた。
自宅を考慮すれば、長旅の疲労もあるのかもしれない。どのみち──と、点滴をして彼女の意識の回復を待つ。
二杯目のアップルティーを入れたころ、誄が瞬きをしていると気づいた忒畝は、声をかける。
「お目覚めになりましたか」
懐かしい、もしくは聞き覚えのある声だと思ったのか。ぼんやりしていた誄が、しっかりとした表情に変わっていく。
声の持ち主が『誰か』と認識したのだろう。狼狽するように、ポツリと言葉を発する。
「私は……なぜ、ここに?」
忒畝はカップを置き、ベッドの横にある椅子へと移動する。
誄が瞳に忒畝を映し、見開く。
半年前は遠目に見たかどうか、それも後ろ姿だ。だから、わからなかったのか。
誄は、以前と違う忒畝の姿に驚いているのだろう。一回りも二回りも細くなった。それに加えて近頃は髪の毛も以前のようにいじることも少ない。
垂らしたままの前髪、白髪、細くなった体形──別人に見えているだろうか。このおだやかで落ち着きのある声が変わらず、『誰か』と判断できたのか。
ただ、誄の目の前にいるのは、『忒畝』としてではなく、『医師』としてだと──誄は理解できないだろう。
「覚えていらっしゃいませんか? 瑠既様と泌稜の丘に行かれる予定だったとお伺いしています。……覚えていますか?」
「ええ」
戸惑いつつ、誄が答える。
「その途中で倒れたと伺いました。森の中だったので、緋倉に戻るより、と……こちらに抱きかかえて来られたそうです。懸命な判断をされたと思います」
緋倉までの距離と、克主研究所までの距離の算出。尚且つ、周辺の医療施設の場所を考え、克主研究所を選んだ。克主研究所は、医師の資格を持つ者が多く所属する。瑠既がそこまで判断したかは不明だが、忒畝は運がいいというより判断力に長けていたと告げた。
微笑む忒畝に対し、誄は戸惑ったままだ。視界がせわしなく動き、定まらない。
「あの、忒畝様。髪は……」
すっかり変わった姿に、誄は聞かずにいられなかったのだろう。忒畝の方が年下にも関わらず、忒畝の時間だけが急加速したように感じられても仕方ない。
もっとも老人には見えないが、それがまた奇妙な感覚を与えたのか。若さを保ったまま、やつれ、すっかり白髪になっている。実に不可思議なことだろう。
彼の中に感情の渦が湧き起こる。
正直に話したくないと感情が拒否をする。けれど、それが、何を生むだろう。無意味な拒絶に違和感しかない。今更、足搔いて見苦しくなることにも、まったくの無意味なのだ。
思い返せば、もう二度と会わないと思っていた。だからこそ、最期だと思い、ひどいことをした。断ち切ったと思って忒畝は過ごしていた。それなのに、誄を前にして、そうではないと心が訴えてくる。
どう答えるか忒畝は思考を巡らせ──なるべくサラッと言える言葉を選ぶ。
「何も。自然のままです」
彼は、最期まで『忒畝』でありたいと願っている。それは、彼が『望み』を手離すと決めた遠いあの日に見出した『生きる道』だ。
外れてしまったこともあったが、無事に終着に辿り着きたいと、切に願って時を刻んできた。馬車を降りた、半年前から特に強く。
忒畝はわざと少し長くなった前髪を指で摘み、微笑む。──痩せ細った体になり、反する丸みを帯びた誄の体を瞳に映して、惹かれている。決別したと思っていたにも関わらず、渇望しそうになる。
心が欲することに、忒畝はわかったと言い聞かす。だが、手に入らないものに手を伸ばすつもりは、もう、ない。もう、ないのだ。
忒畝が思わず顔を背けたのと、誄がうつむき声を発したのが同時だった。
「やっぱり……忒畝様はすてきですぅ。何ていうか……うん、すごく」
忒畝はその言葉を耳にしたが、聞き入れようとはしなかった。
「あ。あぁ、そうだ。おめでとうございます」
強引に気持ちを切り替え、再び誄に微笑む。
誄は何のことか、わからないようだった。
「ご懐妊、おめでとうございます。伝えそびれるところでした」
その声と表情は、まさに『忒畝』だ。
「お体は、ご自愛くださいね」
まっすぐに誄を見て発した忒畝の言葉は、重みのある言葉に聞こえたのか。今度は誄が顔を背けた。
「ありがとう……ございます」
誄の言葉を耳に通したか、通さないでいたか。忒畝はおもむろに内線をかける。
「誄姫が意識を取り戻された。瑠既様をお通しして」
カチャリと受話器の置く音が室内を占領した。そうして、五分もしない間に瑠既が駆け付ける。
入れ違うように忒畝は退室する。──今更、修羅場はごめんだ。だからといって、ふたりの仲睦まじい光景を見ていられる心持ちでもない。
その夜、忒畝は悪夢のように苦しんだ。
──苦しい。……痛い。体が、燃えてしまいそうだ!
フラッシュバックのような苦痛。
忒畝には、自身の姿が琉菜磬と重なって感じていた。長く伸びた髪。痩せ細った体。より大きく見えるアクアの瞳。そして、琉菜磬が黎馨と離れてから感じていた──引くことのなくなった、体中を駆け回る痛み。
その夜以来、日に日に痛みが強くなる一方になった。
そして、数ヶ月し──彼は次第に起き上がれなくなる。
「充忠」
声の主に充忠は急いで振り返る。
「バカヤロ……電話で呼べば俺が行くって、何度言えばわかるんだよ」
「でも、話がある方が来るのが……」
「お前な、そんなことを言っている場合じゃねぇだろ。自覚しろ」
忒畝は苦笑いする。
「そろそろ、僕の仕事を引き継ぎしておきたいんだけど」
その言葉が何を意味しているのか、充忠はすぐに理解する。
「今のままで充分だろ」
強い口調に、忒畝は笑う。
「充忠は『君主代理』なんだから、次の……」
「それを言うなら、馨民だって『君主代理』だろ」
珍しく充忠の口調が荒い。だから、忒畝も珍しく言葉を止めた。
「俺は悠畝前君主にお前を支えてほしいと言われたから、それで君主代理の試験は自分の意思で受けた。だけど……だけどな。俺はお前の次にはならない。いや、なれるわけがない! だからこそ、俺は、今までお前の『代行処理』だけはしなかった」
忒畝が圧倒されて聞いていると、
「許さないからな」
と、充忠は続ける。
「安心してこの世を去ろうなんて考え……俺は許さないからな」
威圧感のある充忠に、忒畝は笑うしかない。
「何だよ? 俺、おかしいことも、冗談も言ってないぞ?」
「いや……充忠が、僕の思っていた通りすぎる人で、つい」
忒畝は苦しそうに笑いをこらえる。
見透かされていたようで、充忠は顔面が熱くなっていった。
「そうだよね。充忠が手離しで僕を見送ってくれるとは、思ってないよ? だけど、考えておいて。充忠は、僕が唯一頼れる人だから」
微笑む忒畝に対し、充忠は口をつぐむ。そのせいで、妙な間が開いた。
「どうしたの?」
「いや……お前は相変わらずずるいなと、思ってさ」
その言葉に忒畝はうれしそうに笑う。
「ごめんね」
そうして、一年近い月日は流れた。




