【44】それぞれの――サイドB(1)
翌日、遅い朝に絢朱へと着いた忒畝は、大臣が手配してくれていた馬車に乗り込む。大臣の配慮に、感謝と申し訳なさが沸く。
数十分で鴻嫗城に着き、忒畝は近くの客間へと案内された。書類に渡すと、大臣は深々と頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いいえ。こちらこそ、ありがとうございます」
できる限り忒畝も態度で礼を返す。
大臣は忒畝の姿に狼狽しているのか、珍しく心配の色が見て取れた。年の功なのだろう、死期が近い者を感じることができるのは。
「このまま夕方の便でお帰りにならずとも……」
「いえ、ご迷惑をかけたくないので」
確認したいことを目視するために、鐙鷃城へと忒畝は行くつもりだ。心配してくれている大臣に嘘をつくのは心苦しいが、目的は言えない。
大臣は『そうですか』と言い、
「では、帰りの馬車も用意させていただきます」
と断定する。──これは誤算だと思いつつも、
「お手間をかけて申し訳ありません」
と、詫びるしかない。
折角わざわざ来たのに、時間を失ってしまった。馬車を正面に止めさせるのは、十分くらいだろう。
客間にいるままでもよかったが、来た目的を諦めるのに、どこかで少しぼんやりとしたかった。忒畝は、客間を出て少し歩く。
──会いたい……というよりは、姿を一目見たい。『あのときの子』の姿を。
それは、わずかに残っていた忒畝の望み、消せなかった望みだ。
誄は『お腹に子どもがいるから』と別れを切り出した。身に覚えのある忒畝は、安易な期待を口にする。だが、誄は即座に夫の子だと言い、『妊娠三ヶ月だ』とも言った。
誄が本当のことを言ったのなら、本当に火遊びだったことになる。だからこそ、忒畝はやさしい嘘だと信じた。
誄が克主研究所に来なくなって、数ヶ月後。発言の計算が合うように、誄の出産を耳にした。信じたくなくて、目には触れないようにした。
それから今度は、自らの発言でも計算が合うと気づく。もしかしたら、と一縷の望みを抱いた。誄は責任を取らせるわけにはいかないと身を引いただけではないかと、淡い期待まで。
しかし、その望みは現実にならないと、忒畝はよく理解をしていて──『生きられる』子は授かれないと、よく理解していて。
唯一、叶うと判断した人がいたが、忒畝は『身勝手だ』と手放している。過去生のため、巡り巡っては『自分』のためだと。
そうであったのに、時間の期限が見えてしまったときに、どうしても確認したくなったのだ。拒絶されたと感じたら、万が一、我が子なら一目だけでも姿を見たいと、抑えることができなくなってしまったのだ。
ふと、忒畝は中庭の見える廊下へと来ていた。足を止めて遠くに見た光景に、思わず一歩、目の前のガラスへと近づく。
遠目に見たのは誄とその子どもたちだった。
誄が幸せそうに笑っている。おだやかに。何事も、なかったかのように。三人の子に囲まれて──。
一番上の子は四歳のはずだと、忒畝は年長の子を探す。
座っている誄と肩が近い位置にある、立っている幼女がいた。
忒畝は笑う──己を。
遠くに笑顔があふれる光景は、当たり前のようにクロッカスの色彩だけが咲いていた。
──これで、想いが断ち切れる。来て、正解だった。
正解だったと思う一方で、激しく落胆する。
──『よかった』と思っているのに……なぜだろう。
胸が締め付けられる。瞳に熱を感じている。安堵とは真逆の感情が渦巻いて、輝かしい光景を見ていられなくなる。
忒畝は少し顔を上げ、右に顔を逸らす。──そこで、思ってなかった人物が視界に飛び込んできた。
こんな姿を見られて気まずいと、忒畝は窓からゆっくりと離れる。
誄との関係に気づいていたはずだ。忒畝は高ぶる鼓動を感じつつ、対面になるように体の向きを変える。
誄が克主研究所に来る度、その体に想いを刻み込んだ。一回が二回、二回が三回になって、刻み付けるものは対抗心へと変わっていっていた。
気づかせたかったのだ。
『貴男の妻を想う相手は、貴男ひとりではない』と。
気づいただろう。気づくようにしたのだから。言いたいことはたくさんあるのだろう。露骨に挑戦状を叩き付けたのだから。
関係が終わってずい分経つが、忒畝は何でも言われる覚悟をする。どんなことを言われても、どれだけ殴られても、当然のことをした。その、自覚がある。
「どうしたの? 神妙な顔しちゃって」
「いや。何か言うのかな、と思って」
「何か……言いたいんじゃぁないの?」
忒畝の言葉に、相手は重い口調で返してきた。忒畝は視線を外し、言いにくいが口にする。
「それは、逆。瑠既の方でしょ? 僕は何も……」
「誄姫に会いに来たんだろ。会わないで、何も言わないで帰るのか?」
言葉を遮られたことに対し、忒畝は睨む。
「会いに来たわけじゃない」
即座に否定をする。どうして責める言葉のひとつも言わないのかと苛立たしい。──けれど、瑠既と喧嘩をするために来たわけではない。
忒畝は悔い、口調を改める。
「幸せそうだから……よかった、と思って」
「『よかった』って表情でもねぇけどな」
嫌味のような瑠既の言葉に、内心がざわつく。
──はっきりと言えばいい。
このまま喧嘩腰に言葉を言ってしまうことは容易だ。だが、それは忒畝が望む結果をもたらさないだろう。
忒畝は再びガラス越しの光景を眺める。
「子どもが……一目見たかったんだ。誄姫の子は、かわいいだろうなと思って」
それは望みを想像し、何度も思ったことだ。
瑠既を視界に映す。『当たり前』と極自然に持っている、その『当たり前』をうらやむ。
──僕にも『当たり前』だったら。
かつての『夢』、その続きの光景を想像し、『想像』の域を出ないと切り離す。
「かわいいね」
「そりゃあ……どぅも」
なぜかたじろいたような瑠既を視界に映したまま、
「じゃあ」
と、忒畝は背を向ける。
「えっ? おい、ちょっ……」
後ろから聞こえた瑠既の声は、なぜか途中で聞こえなくなっていた。しかし、忒畝はそれを気にとめない。
客間に戻ると、扉の前では使用人がひとり立っていた。
「お待たせしました。ご用意ができましたので、ご案内いたします」
「ありがとう」
色々とあったが、目的を済ませられた。よかったと一安心する。そして、待たせたかもしれないが、使用人がいてくれたことが、ありがたかった。
正面の入り口で、忒畝は馬車に乗込む。何秒かかけて座り、扉が閉まるころ──心を動かす声が聞こえた。
「忒畝様ぁっ!」
「出してください」
咄嗟に忒畝は言う。
扉が外気を遮断するように閉まり、馬車はゆるやかに走り出す。
鴻嫗城が徐々に遠ざかっていく中で、再び叫び声が聞こえた。
「待ってくださいっ! お話ししたいことが、あるんですぅっ!」
忒畝は胸が引き裂かれる気がした。会いたいと、話したいと思いながら、耐えた月日があった。そのころの想いの方が、今の誄の想いよりもずっと強いと、グッと両手を握る。
「止めますか?」
手綱を引く御者が、忒畝に確認をする。




