【43】過去から現世へ、現世から未来へ(2)
『30497Er.』
焼き印──琉菜磬の正式名称。
更に別の方向からも仮説を立て──忒畝が浮かべたのは、竜称。竜称は、『龍声』と聖水を呼び、赤子のころから面倒をみて、かわいがっていた。
──もしかしたら、本当に……。
『龍声』の両親を知っているわけではない。だが、それは『琉菜磬』の両親も同じこと。
つまり、可能性はゼロではない。
この結論に忒畝の心はやわらかくなった。聖水に幸せになってほしいと、心から思えるほどに。
「ほら、たまには部屋から出よう? 僕も一緒に行くから」
手を差し出せば、聖水は無邪気な笑顔を浮かべて忒畝の手を取った。
こうして聖水が自立していき、忒畝は胸をなで下ろしたものだ。
この年は寒さの厳しい冬だった。
鐙鷃城の宮城研究施設開設の手続きは完了していなくて、少なくとももう一度は会える──と思っていたのに、一通の輸送便がその望みを絶った。
誄と交わした最後の会話を思い出し、けれど、都合のいいように信じていたくて、不安に押しつぶされそうになりながらも手続きを完了させた。
信じていたかったからこそ、どんなに苦しくても連絡はしなかった。名目は、いくらでもあったのに。
苦しい冬を越え、季節は春に姿を変えて、あたたかな日差しが降り注ぐようになる。日々の平穏を取り戻したとき、忒畝の足は図書室の前で止まった。
窓から、森の中をぼんやりと眺める。
──この奥には塚があったはず。
それは、過去に見た四戦獣を封印した塚。
──人には縁がある。縁はふしぎなものだ。巡り合わせだ。必要なタイミングで繋がっていく。そして、消えていく。
何かに導かれているように、忒畝は漠然と、過去と現在、未来に思い巡らす。
──人は多くを悩む。生まれてきた意味を探そうとする。
幼いころ使命だと走り、今頃虚しい。まるで燃え尽き症候群のようで、忒畝はちいさく笑う。
無意識で『生きている意味』を模索している。もうとうにカウントダウンが始まっているというのに、遅い思春期のようで忒畝にはおかしかった。
苦しかった。突然ブツンと繋がりが切れてから。
もう来ないと、突き付けられたときから。
けれど、溺れてしがみ付いているよりも、この平凡な日常が愛おしい。何よりも大切なものだ。
忒畝は再び歩き出した。ゆっくりと、踏み締めるように。
忒畝は船内の雑踏を耳に流しながら歩いているものの、心ここにあらずだ。思い出が、次々に押し寄せてきて。
吉報が舞い込んだのは、それからまもなくしてからだ。
悠穂が忒畝の部屋に来るなり、母子手帳を広げた。忒畝は一瞬、視界が真っ白になったが、それは本当に一瞬で。次の瞬間には喜びがあふれていた。
「おめでとう!」
忒畝は思わず悠穂を抱き締める。
「お兄ちゃん?」
「うれしい。おめでとう」
感情的になって抱き締めたが、悠穂ももうひとりの女性だと忒畝は我に返る。いきなり両手を離すのもおかしいと、徐々に力を抜き、離した。
すると、悠穂の頬からホロリと雫が落ちる。
「お兄ちゃん……ありがとう」
悠穂はホロリホロリと大きな雫を落とす。泣きじゃくる悠穂を見ているのに、忒畝はうれしい。
「よかった。やっぱり、悠穂は幸せになったんだね」
「うん」
悠穂がちいさく返事をした。
「これから、もっと幸せを重ねてね」
「ん……」
悠穂がまたちいさく返す。
ふと、悠穂が顔を上げ、忒畝の顔をジッと見た。悠穂の表情がひどく歪む。
悠穂は声を出せないまま、力強くうなずいた。
──そういえば。
悠穂を落ち着かせてから、うれしさを我慢できずに鷹に言いに行った。
「そうそう。産まれたら絶対に三番目に抱かせてね」
「三番目?」
「一番に、と言いたいところだけど……やっぱり一番、二番は両親でしょう? だから、三番目」
忒畝は喜びのままに言葉を口にしたが、鷹はどこかぼんやりとしていた。あのときはフワフワとしていて、鷹の反応を考えている隙間がなかった。ただ、
「絶対だよ!」
と、喜びのままに釘を刺して、鷹はもちろんだと返事をした。
あの日、忒畝は自室に戻ってから、じんわりと安堵が込み上げた。
尊敬し、憧れた両親の血が繋がっていくと実感できて、うれしかった。果たせないことを、妹が果たしてくれたのだと、感謝した。
幸せな気持ちに包まれ、よかったと瞳を閉じたとき、頬を何かが滑っていくのを忒畝は感じる。
時間が、止まったようだった。
違和感だ。
落ちた雫は、うれしさからこぼれたものではないという、違和感。
感情と体の反応の差。それを忒畝が考えようとする間に、雫は止まらないものに変わっていた。
奇妙な感覚だった。
大きな喜びが、いつの間にか絶望を浮かばせている。
気つけば忒畝は、声を上げて泣いていた。
その夜、ひとりで眠った忒畝に、強烈な孤独が襲う。悠穂が身籠り、心から喜んだのは、本当だ。
しかし、夜になって『自身が果たせないこと』が忒畝を苛んだ。
誰かに、無性にそばにいてほしくなった。想いを寄せた人を恋しく想う。──それが、余計に忒畝を責めた。
家族を築きたいと、互いに寄り添える伴侶がほしいと──たとえ血の繋がりがなくても子どもを育てたいと、切に来世へ願った。次こそは、望むような幸せがほしいと。
強烈な想いは、理解しがたい。いや、誄は黎馨だと、認識したからだと理由付ける。過去生からの繋がりを繋げていたいだけだと。過去生からの感情移入だろうと。どこか客観的に捉える一面を持っていた。
琉菜磬が黎馨を求めているだけであって──誄への想いは、黎馨を想う気持ちに呑み込まれたときに似ていて。その感覚が、忒畝に己の想いを拒否したい気持ちを呼んだ。
黎馨と重なっているだけだと。非現実的なものだと。
──来世の幸せを願うなら、現世で断ち切るべきだ。
彼女との関係は現世、断ち切らなくてはいけない。来世に幸せを願うのであれば、続けるわけにはいかないと自戒した。
その後、誄の吉報を耳にしたが、目にするのを避けた。一目見てしまえば、かんたんに見入ってしまいそうで、顔を忘れればいいと見ないようにした。
幸せそうだと嫌になるほど耳にして、醜い言葉が心の奥底からいくつも湧いて出た。湧き出る言葉の数々に自己嫌悪して、耳も塞ぎたくてたまらなかった。
悠穂が予定日より少し遅れて女の子を出産したのは、その年の十二月十七日、早朝だった。標準体重を上回る、大きくて元気な子。
「おめでとう」
「ありがとう! ねぇ、お兄ちゃんも悠水を抱いてあげて」
「悠水って……名付けたの?」
「かわいいでしょ?」
忒畝は驚いたが、悠穂は幸せそうに笑っている。忒畝は首肯し、悠水を抱き上げた。すると、
「『水が流れるくらいに、ゆったりとした時間の中で幸せになってほしい』って、悠穂がめちゃくちゃハイセンスな名前を考えたんすよ~」
鷹が幸せの絶頂を切り取って、忒畝に言う。ただ、その断片は、忒畝には聞いたことがある一部で──いや、過去に聞いた願いだった。
今度こそ叶えばいいと忒畝は願う。
「そうなんだ。いい名前だね。きっと、この子も……幸せになるね」
「うん!」
悠穂の声が力強く弾む。
忒畝には、過去から現世への想いが届いたような瞬間だった。
月日は振り返ればいつもあっという間で、心に大きな波があっても、おだやかに日々を過ごすことができるくらいになっていた──と思っていた。
年月も経ち、普通に会話くらいできると想像して輸送便を送ったが──波がなくなったわけでもなかったのだ。
最期の最期にと、こうして行動してしまうくらいに。
──ただこれは、現世、断ち切るためだ。
言い訳だとしても、忒畝は前を向こうとする。
悔いを、残さないために。




