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【43】過去から現世へ、現世から未来へ(1)

 森に囲まれた研究所の一室で、ひとつの封筒に視線を落とし、ため息をついている者がひとり。重力に逆らう髪は、光をさほど受けているわけでもないのに、強い光を受けているかのように白い。

 痩せているというよりは、やつれている印象で。やせ細った顔立ちのせいか、瞳が大きく見える。晴れた空を反映させるような晴天の澄んだ色──アクア色の瞳を、深い緑色で着色された淵の眼鏡が、重そうに覆っている。

 手元にあるのは、言い訳にする物だ。これからの行動を愚行だと判断している。だから、ため息が止まらない。

 ──こんなことは、僕の我が儘(ワガママ)だ。ふたりに言えば、すぐに察するだろう……こんなこと……。

 出かけようとしているのに、それを告げる人物を想定して、言えないと封筒を手に取れないでいる。

 それならば出かけるのをやめればいいだけなのに、実に悔しい。愚行と判断していながら、舵を切れない。


 ──何年も経っているのに、一歩も進めていない。

 痛感してきた。一度も連絡がなく、五年近くが経っている。とうに終わったこと。わかっているし、今更、未練がましくするつもりも毛頭ない。

 けれど、沸々と湧き上がる後悔がある。いくら耳にしても、一度もきちんと見ようとしなかったことが災いしているのだ。

 わざわざ行かなくても、確認できる。わかっている。それなのに、どうしても直接確認したいと願うのは──未練がある、それを認めたくはない。


 忒畝トクセは言い訳にする書類の封筒を悔しそう見つめ、サッと手に取った。




 向かった先は聖水セイナの部屋だ。

 苦肉の策だ。誰にも言わず何日か不在にするわけにはいかない。以前、一度だけ急用で唐突に出かけてしまったことがある。同じことをしては、余計に心配をかける。


 トントントン


 ノックをすると扉が開き、白緑色の髪が見え、パチリとした柳葉色の瞳が忒畝トクセを見る。──聖水セイナは、扉を開けるようになっていた。

忒畝トクセ

『いらっしゃい』と言うように、聖水セイナは笑う。おだやかで上品な笑顔。

「おはよう」

 忒畝トクセのやわらかい声に、聖水セイナも同じくあいさつを返す。

 聖水セイナはキッチンへと向かう。どうやらアップルティーを入れるようだ。ほんのりと安らぐ香りが忒畝トクセの鼻孔に届く。

「書類を……鴻嫗トキウ城まで届けてくる」

 長居はしないと忒畝トクセは伝えたが、それでも二日は留守にする。


 コトリとティーポットの置かれる音がした。


 聖水セイナが時間を止め、忒畝トクセは咎められる気がした。

「そう……愛し合った人に、会いに行くんだ」

「違う」

 ルイ聖水セイナは知らないはずだ。鴻嫗トキウ城とルイが繋がるとも考えにくい。けれど、忒畝トクセはその前提を認識する余裕なく、即座に否定した。

 聖水セイナの頬も髪の毛も、怒りを露骨に表現するように広がり不満が爆発する。

「だって、そうでしょ? もう遠出をできない体だって、忒畝トクセが一番よく……」

「違う、やめてくれ! 彼女は僕を愛したことなんて、一度もない!」

 思わず叫び、忒畝トクセはハッとする。──感情的になって叫ぶなど、実に忒畝トクセらしくない。それを忒畝トクセ自身が気づいたのだろう。

 やるせなさを噛み殺す。テーブルの上に置きかけた封筒に力を入れ、

「ごめん……行ってくる」

 と、踵を返す。


 喉に通さなかったのに、アップルティーの香りが鼻孔の奥に残っている。

 聖水セイナはこの歳月で、精神的に子どもから女性へと目覚ましい成長をした。今では悠穂ユオとも馨民カミンとも、他の人々とも多かれ少なかれ交流を持っている。

 悠穂ユオ馨民カミンも努力してくれたが、聖水セイナ自身も頑張ったからこそだ。


 聖水セイナの頑張りを認めているからこそ、やさしくしようと心がけている。けれど、身勝手な態度をとってしまうときがある。──先ほどのように。


 甘えだ。認めている。聖水セイナは許してくれるという、実に身勝手な甘えだ。どうにもならない寂しさを、衰えていく苦痛を、嫌とは言わない聖水セイナに埋めてもらっているのだ。


 無理の利かない体にも関わらず、感情任せに歩く。


『後悔をしないように生きてほしい』

 父の最期に、贈られた願い。

 おだやかな父との思い出にも関わらず、今の忒畝トクセには父と似た雰囲気はない。あのときの、儚げな父の面影にも似ない。

 忒畝トクセの後悔は、ルイの別れの言葉を『やさしい嘘』だと信じたことだ。


 ──この気持ちを断ち切りたい。最期に僕は、笑っていたい。

 両手が強く握られる。

 忒畝トクセは前をまっすぐと向き、緋倉ヒソウまでの道をしっかりと歩いた。この体で産まれたことを、後悔しないでいられるように。

 死の恐怖を、感じないままでいられるように。




 汽笛が大きく鳴る。──正午便の出航だ。


 忒畝トクセは乗船し、バルコニーにいた。空と海だけを視界に映し、瞳に映す色を懐かしいと過去を見ていた。

 視界のほとんどを水色で埋め尽くし、忒畝トクセは瞳の色を好きだと言った人物を思い描く。重ねた想いの分だけ、辛い。信じた分だけ辛い。いや、わかっていたはずだ。勝手に信じていたかっただけだ。


 命の期限を見据えたとき、一度きちんと話がしたいと痛烈に思い、返信が必要な書類をわざと輸送した。あえて輸送の返信でも構わないものを選んだのに、彼女の夫が代理で来たと書類を受け取り──忒畝トクセはやっと気づいた。


 ──彼女は誰でもよかった。僕が、彼女でないと駄目だっただけだ。

 勝手に都合のいいように思い込んでいただけだと、冷静に思い返す。浮かれていただけだと叩きつぶす。水色が好きだと聞いて、その言葉をずっと向けていてほしくて、コンタクトを外した。

 まじまじとのぞく彼女に釘付けになって、瞳に沈んでくれたらいいと息が止まりそうだった。色に対する恐怖と、彼女への想いを天秤にかけたら、後者に傾いた。母が付けてくれた効果がなくなっても頑なに外せなかったコンタクトを、そのひとつの要因だけで、ためらわずに捨てた。


 ──愚かだ。……惨めだ。こんな感情を抱くなんて……。

 いつの間にかうつむいていた顔を、一気に天へと向ける。一面は空だ。雲ひとつなく。


 愛情は憎しみに変わるという。本当だと忒畝トクセは笑う。もう、会いたいとも、話したいとも思っていない。ただ、確かめたいことを、確かめられればそれでいい。

 確かめられる方法はいくつでも知っている。でも、どうしても万が一と心の片隅に消せない望みがあって、叶うのなら──打ち砕くのなら、一目見たいと突き動かされた。


 忒畝トクセはこれまでの言動を振り返り、実に屈辱的だと己を嘲笑う。


 ──断ち切ろう。僕は、死を……おだやかな状態で迎えたい。きっとまた転生を迎える。そのときには、こんな感情を抱きたくない。来世こそは……おだやかに時を刻んで、手離した『憧れ』を手にしたい。


 おだやかに笑う父を、遠い空にいるように忒畝トクセは眺めた。いつもそばにいてくれた父。憧れて背を追うように猛勉強をした幼少期。君主代理になり、やっと並べた気がしてからは、父を遠く感じることはなかった。──父がこの世を去るまでは。

 背中さえ見失ってしまう感覚が何度もあった。あの、ちいさな命を見送るまで。


 忒畝トクセはしばらく天に答えを仰ぐように見つめ、船内へと歩く。

 ──望むのは……強欲だろうか。


 歩きながら、記憶がバラバラと降ってくる。


 あれは、彼女がまた来ると示唆してからのこと。

 示唆した通り、彼女がやってきて──何度か同じようなことが繰り返されて、話が弾むようになって、彼女は結んだリボンをブツンと切るように来なくなった。


 彼女が来る度に、忒畝トクセの体調は悪くなる。翌日は起き上がれないこともしばしば。けれど、自業自得だと、なるべく通常通りに過ごすことを心がけた。──それでも、著しく体調は悪化して、充忠ミナルには気づかれた。

「今度来たら、別に俺が対応してもいいだろ?」

「そうだね」

 正論だと即答したのが、充忠ミナルには気に食わないようだった。


 聖水セイナへの意識が変わったのも、このころだった。

 ただし、聖水セイナが部屋から出ることはまだなく、忒畝トクセは体調が悪くてもなるべく定期的に行っていた。忒畝トクセが行かなくては、聖水セイナが孤立する恐れが高かったから。


 徐々に変化があり、扉を叩くと聖水セイナは返事をして、顔を出すようになった。話し方も流暢になり、子どもっぽさが抜け、更には文字を覚えた。


 笑顔で過ごす聖水セイナを見て、忒畝トクセはふと、彼女とも過去生での繋がりがあったのだろうかと、過去生を思い浮かべたことがあった。

 すると、聖水セイナを妹のように感じ──しかし、琉菜磬ルナセに兄弟はいない。琉菜磬ルナセの出生を巻き戻し、共通点を見つける。

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