【３９】思い出の日１
叔は綺に入ろうと、半回転したのだろう。
瑠既は『二度と来るな』という言葉を思い出し、思わず視線を逸らした。
「なぁに？ じぃちゃん？」
幼子の声に、瑠既は声の主を見る。けれど、同じ行動を叔もとっていて──瑠既はまさかと動揺する。
「おお。じぃちゃん、ちょっと用事があるから。悪いけど先に入っててくれよ」
叔はどこか慌てた様子で幼子をなで、降ろす。
「はぁい」
幼子は叔に返事をし、一瞬、瑠既を見上げた。
──この子も、俺と同じことを……思ったのかもしれない。
視線が合ったのは、一秒もない。なのに、そのわずかな間で、瑠既の頭は真っ白になった。
幼子は、瑠既を見上げ、すぐに綺へと走って姿を消した。
極わずかな間。──それなのに、どうしてか。幼子の顔が、焼き付いた。振り向き、見上げた幼い顔は、倭穏の瞳と酷似したまん丸の黒い瞳。
「久しぶりだな」
幼子の姿が見えなくなって、叔は苦笑いをしつつ瑠既に歩み寄る。
「叔さん、あの子……」
「やっぱり、ばれる日がきちまったか」
叔は顔向けできないと言うように、頭を掻く。
「『りゅう』って、言うの？」
瑠既が叔に呼ばれたとき、幼子もまるで自分が呼ばれたかのような反応をした。その一瞬の違和感を、幼子は敏感に感じていたようだった。
「ああ。倭穏の子が無事に生まれて、男だってわかったら……つい名付けちまった」
「倭穏の子？ え？ 倭穏は……」
「俺の罪を話すよ。……入りな」
叔は瑠既を招き入れる。
先に綺へと入っていった叔を瑠既が追うと、叔は入ってすぐのところで先ほどの幼子と話していた。
「留、この人は大事なお客さんだ。じぃちゃんな、ちょっと話しをしないといけない。悪いが、その間、店番して待っててくれるか？」
ふと、留が瑠既を見上げた。何か言いたげな表情を浮かべたように見えたが、すぐに叔に顔を向けると、
「うん。俺、じぃちゃんが来るまでの間くらい、店番できるもん。いいよ！ 任せなよ」
と、右腕を胸にあてる。
叔は留の頭をなで、留は満足そうに笑った。叔が瑠既に向かって歩いてくると、また留と一瞬目が合った。
「こっちで話そう」
「ああ」
今度は意識して留を見たが、留は瑠既を見ようとしなかった。
瑠既が通されたのは、叔の部屋。スライド式の扉を叔が開け、瑠既を招く。のれんをくぐり段差を登れば、こじんまりとした室内。奥にあるキッチンは、ふたりも並べばいっぱいになる。
「前も改まった話しをしたのは、ここだったな」
叔はまた苦笑いを浮かべた。
「今度は、俺の話す番だけどな。何か飲むか？ って言っても、茶くらいしか出せないけどな」
「いや……」
瑠既は座りながら戸惑う。最後に会ったときと違い、叔が普通に接してくれている。歳月が叔の心持ちを変えたのだろうか。それとも『留』が──。
コトリと何かが置かれ、瑠既は顔を上げる。昔、瑠既が使っていた湯呑だ。
「何から話せばいいかなぁ……そうだ。留な。留が産まれるまでは、あそこの大臣が全部、手伝ってくれた。設備も色々と揃えてくれてなぁ。金銭面は今でも、もうずっと気にかけてくれてる。留が無事に生まれてから、今までで充分だって言っても、律儀にな」
「叔さん、ごめん。話が見えない。どういうこと？ 倭穏は……」
しみじみと話す叔に、瑠既は素直に問いかける。叔は『ああ、そうか』と謝りつつ笑った。
「倭穏はな、妊娠していた。それをいち早くあそこの大臣が気付いたらしくてな。もちろん、生存を目指して懸命な治療を行ってくれたそうだ。まぁ、瑠も知っているように、それは無理だったわけだが……。でも、何とか仮死状態を保つようにはしてくれていたんだ」
そう言われてみて、瑠既は大臣にしては奇妙な行動だったと振り返る。叔が鴻嫗城に来たとき──大臣自ら叔を絢朱に迎えに行っていたと噂話を耳にした。当時は、叔が鴻嫗城にひとりで来たところで入れないからだと思っていたが、倭穏の状態をこっそりと話すためだったとは。
「留は、俺にとっては唯一の希望だった。闇の中の光だ。悪魔に魂を差し出すのも惜しくないほどにな」
「ひどいよ」
拒絶したのは演技だったのかと、瑠既は脱帽する。どんなときでも知らぬふりをできない叔が、あんなことを言ってまで瑠既を遠ざけようとしたのだ。
「悪いな。必死だったんだ。お前にばれたら全部が水の泡になるのが、怖かったんだ」
想像するのは容易い。大臣が鴻嫗城に瑠既を残すために、交換条件を出したのだろう。叔に対して、瑠既に子どものことを気づかせるなと。
「それでもひどいよ。あんなときに、あんなに上手く叔さんに芝居ができるなんて……考えもしなかった。それに、俺には……ずっと付けたい名前があったのに」
徐々に瑠既の声は消えていったが、叔は幸せそうに笑う。それを見た瑠既は、思わず望みを口にする。
「倭穏は？」
一瞬で、叔の笑顔が消えた。うつむき、呟く。
「留がこの世で生きられるように、腹の中で育つまでが……限界だった。いや、もう限界は超えていたかもしれない。俺は……」
瑠既は叔の右手を両手でつかむ。それ以上は話さなくていいと、首を横に振る。
現実は、現実だ。辛すぎるほど、瑠既もわかっていたはずで。それなのに、一縷の望みを口にしてしまった後悔が、瑠既の瞳から一筋流れ落ちる。
ここには、叔との、倭穏との思い出がたくさん詰まりすぎている。
「瑠、留は、お前が父とは知らない。……お前はもう、ここに来るな。来てはいけない人間だ」
『来てはいけない人間』──貴族、それも鴻嫗城の長男ということ。妻帯者であり、子を持つ身だということ。いや、大臣からは、前者で身分の差をキッチリと言われたのだろう。
流れた涙を拭うと、
「わかった」
と、ポケットに手を伸ばす。
「これを」
瑠既が出したのは、ちいさな瓶。
「昔、倭穏が俺にくれた物だ。アイツが好きな香りだった。渡してほしい。香りは……その人のことを思い出すと、聞いたから。せめて、母親の記憶を……留にやりたい」
子どもと会えない辛さは叔も理解しているはずだ。叔は無言で受け取る。そうして、そのまま立ち上がり、湯呑をふたつ持ち上げる。
「今日は泊まっていけ」
奥のキッチンへと叔は消えていく。
「お前の部屋、あのままだ。何も持っていかないままだっただろう？ 今更、何もいる物もないかもしれないが……必要な物があれば持っていけ。お前の物だ」
水の流れる音が響く。
「ああ」
荷物の整理を叔はできなかったのだろう。けれど、言葉に従って瑠既が整理をしてしまえば、叔との関係も完全に切れてしまう気がした。
水の音が止んでも、叔はキッチンに立ち尽くしている。その背中は、泣いているように見えた。恐らく叔も、同じように考えている。
ふと、瑠既は、胡坐をしていたと気づく。
「叔さん」
瑠既は立ち上がる。
「今まで、ありがとうございました。これからは息子を……いや、これからも息子をお願いします」
髪が、瞳が、黒であっても、瑠既は留を我が子だと受け入れていた。血の繋がりは、どうでもいい。倭穏の面影を持つ子がいる──その事実が、ただただうれしい。瑠既にとっては、倭穏の子は、我が子だ。
叔は振り返らない。本当は『ド』がつくくらい真面目な瑠既が、深々と頭を下げていると、見なくてもわかっている。
途切れたようで繋がっていた親子関係は、これで終わりを告げる。
正午を知らせる汽笛が、大きく鳴った。
