【38】一世一隅の好機
「行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
ふたりの娘と、妻の誄に見送られ、瑠既は鐙鷃城を出る。
短時間のひとり行動には、慣れた。だが、これから向かう道のりに、瑠既の鼓動は高鳴っている。
鴻嫗城の裏門が近づく。これから、絢朱へと向かう。楓珠大陸行きの船に乗る。昔々の足取りを思い出し、足がすくみそうになる。
──楓珠大陸に、行けるときがくるなんて思わなかった。
五年が経った。鴻嫗城に戻ってきてから。
戻ってきた理由は、忘れない。目的を成し遂げられた。だが、よかったかと問われれば、決して肯定できるものでもない。取り戻したものを考えれば、今となっては大きい。けれど、失ったものは──計り知れないほど大きい。
叔も倭穏も、瑠既にとっては間違いなく家族だった。
すくみかけた足を、無理に前へと進める。そう、行けるときがくるなんて、思っていなかった。今日は、これから堂々と行けるのだ。楓珠大陸に、緋倉に。
目的地は克主研究所。手渡しをした方がいい書類らしく、本来は鐙鷃城の宮城研究施設の取締役となった誄が行くはずだった。だが、体調を考えて瑠既が行くと申し出た。
宮城研究施設の名簿に瑠既の名はないが、出身を考慮すれば地位は沙稀と恭良に並ぶ。そんな建前を瑠既が理解していたかは別として、誄が申し出に甘えた。
絢朱へ向かう道のりも、船に乗ったあとも、色んな感情が混ざり合ってあっという間に時間が過ぎ去る。夜になって眠りにつけば、更に加速して──瑠既は、楓珠大陸の港街、緋倉に降り立つ。
年月が経過した緋倉は、変わったというのが第一印象。けれど、すぐに変わっていないと雑踏を懐かしく思う。
確かに、街並みはところどころ変わっていて、見慣れない場所がある。ただ、基本的な区画は同じで、記憶を基に道を歩いても──綺に辿り着けるような気がした。
瑠既は手元にある書類を意識する。誄にとって、大切な書類だ。
誄も、沙稀も、大臣も──瑠既が綺で過ごしていたことを、すっかり忘れたのかもしれない。ずっと、鴻嫗城にいた錯覚を持っているのかもしれない。
行き交う人々に紛れそうになる。
──綺に……。
行ける距離にいると、足がフラリと向かいそうになる。
けれど、書類を持つ右手に力を入れて踏みとどまる。自ら届けてくると申し出た。責任は、果たさなくてはと、綺を避けて克主研究所へと向かう。
後ろ髪を引かれるとは、まさにこのこと。いないとわかっている、もう。なのに、綺に行けば、倭穏に会えるのではと願ってしまう。
叔から来るなと言われたのも、鮮明にずっと覚えているのに。
緋倉を抜けて、森へと向かう。克主研究所へ瑠既は初めて向かうが、ていねいな道標があり、迷うことはなかった。
城と違い、克主研究所の入り口は解放されていて、瑠既はためらわずに踏み込む。貴族とわかる容姿で楓珠大陸にくれば浮くと考慮し、できるだけ気楽な格好で来た。けれど、周囲は明らかに研究者ばかりで──瑠既が部外者だと一目瞭然だ。
誰かが、見慣れない者がいると報告したのだろう。入口からしばらくしたところで立ち止まった瑠既に声がかかる。
「お困りですか?」
白緑色のツンツン頭──が来ると想定していたのに、声をかけてきた人物は見知らぬ者だった。クロッカスを濁らせたような鳩羽色の髪と、珍しいオリーブイエローの瞳を持つ物腰がやわらかそうな男。
「あ~、鐙鷃城から遣いで来たんだが……忒畝は?」
君主をあえて呼び捨てで言ったからか、オリーブイエローの瞳が見開かれ、やわらかさがその男からスッと失われた。
「これは、失礼いたしました。君主は生憎、別件がございまして……私、君主代理を務めております充忠と申します。差支えがなければその書類、私から君主にお渡しします」
充忠と名乗った男は、瑠既の右手をチラリと見、右手を差し出す。拒む理由はない。忒畝に会いに来たわけではないのだから。けれど、こうも敵視を注がれては、いい気がしない。
──勝手に呼び捨てで呼んだわけじゃなく、本人から了承をもらってんだけどな。
もどかしく思ってみても、場を考えれば確かに肩書きで呼んだ方が無難だったわけで。ただし、こんなラフな格好で来ておいて、改まるのもおかしいと瑠既は思ったのだが。
「じゃあ、『鐙鷃城の誄姫から預かった』と伝えてくれればわかる」
ポンと粗雑に瑠既は渡したのに、
「確かに。お預かりいたします」
と、充忠は業務的に受ける。それは、用が終わったのなら帰れと言っているようなもので、瑠既は早々に克主研究所をあとにした。
正午便がこれからなのが幸いだ。しかし、沸々と腹立たしい。
「ったく、俺が何したって言うんだよ」
書類は受け取ってもらったが、追い返されたようなものだ。こんな扱いは初めてで、つい、どこの誰だか知らないんだろうと自らを擁護する言葉が浮かぶ。
──いや、俺が誰か、気づいたからか?
鐙鷃城の婿だと気づいた。だから、忒畝に会わせず、門前払い同様の態度をとられた。
フンと瑠既は鼻で笑う。ばからしい、実にばかげている。だが、腑に落ちた。誄が来なくて正解だったと、瑠既は克主研究所での出来事を払拭する。
瑠既の機嫌が晴れたころ、緋倉へと着いた。そうして、行きに見ないようにしていた未練へと意識が向く。
長年、身を寄せていた宿屋、綺。倭穏を見送った日からずい分経っても、綺は閉まったままだと忒畝が言っていた。
だが、更に歳月は流れた。
本音を言えば、現状を確認するのは怖くもある。まだ、閉まっているままだったら──いや、開いていたとしても、顔を出すわけにもいかない。いいや、足は向かってしまうだろう。そうなったら、足を止められるかどうか。
現状を見たい、見たくないと思いが瞬時に切り替わる。
かんたんに来られる土地ではない。そもそも、機会がない。一世一隅の好機だ。──そう、瑠既の心が固まった、まさにそのとき。
「じぃちゃ~ん」
聞き覚えのある声に、瑠既は振り返る。
遠くに、綺が見える。声は綺から聞こえたようで、声の主を探すように瑠既は近づく。
──あの、甘えたような声は……。
倭穏の声に、似ていた。瑠既はまさかと疑う。疑いながらも、信じたい一心で。視界が、少し滲んだ。
「おお! お帰り」
叔が綺から出てきた。
知っているよりも叔は年を取ったように見えたが、元気そうだ。幸せそうに笑っている。綺は営業中のようで、瑠既の知っている店構えにホッとする。ただ、それは束の間で、
「ただいま~!」
また、あの声が聞こえた。
すると、叔は屈み──叔の視線を追えば、ちいさな子どもがいて──駆け寄ってくる子どもを叔は受け止め、いい子だと言わんばかりに頭をなでる。
その光景は、叔の孫に見えた。事情を知っている瑠既は混乱する。叔は再婚し、新しい家族ができたのか、と。
叔が子どもを抱き上げる。叔の背中から見える、ちいさな人物は黒く短い髪だ。走っていた姿は、短パンだった。倭穏の声に聞こえたが、女の子ではなく、男の子かもしれない。年齢は四~六歳くらいだろうか。
──いや、六年前なら俺も知っていたはずだ。
倭穏がいなくなってから叔が再婚したとして、子どもは四歳か──と瑠既が勝手な推測を立てていると、
「瑠……」
今度は、叔の声が聞こえた。




