【３７】枯渇（１）
翌朝、恭良を腕に抱きながら、沙稀は幸せを心に刻む。
これ以上の幸せはない。
そう思うと同時に、大きな不安につぶれそうになっていく。失ってしまう恐怖を感じる。苦しみは、数年前の羅凍との会話を鮮明に呼び起こす。
『俺たちは、兄と妹だった』
沙稀の鼓動を、強く鳴らした言葉。
沙稀の中で、心の片隅に住み続けていた考察。
ただし、この考察はどう考えても矛盾する結果ばかりを置いていく。
『恭良は、偽りの王の連れ子』だと結論付けるのが、妥当。それなのに、着地点をそうだと思おうとすればするほど、信じられなくなる。
そうして、考察は取り残され、消せずにいた。
考察を消すには、地道に可能性をひとつずつ、確実に消していくことだ。言葉で示せば単純だが、実行に移すのは難しい。
けれど、その先には──真実がある。いつしか、沙稀は真実を探し求めながら心を枯渇させていた。
沙稀は、珍しく恭良に声をかけずに、ゆっくりと離れる。やわらかい頬に手を伸ばそうとしたが、激しい罪悪感に駆られ手を止める。
──恭良がいてくれたからこそ、俺は……。
伸ばしかけた手が、震える。だが、止めた手を再び伸ばす。大切なものを手放す覚悟をするように、最後かのように、悲しげに触れた。
寝室を出て、沙稀は颯爽と歩く。向かう先は、今まで近づこうともしなかった場所。
「沙稀様？」
大臣の声は、沙稀の耳を通り抜けた。
一瞬だったが、大臣には明らかな違和感だったのだろう。大臣は追いかける。すると、沙稀はピタリと足を止めた。
「少し、確認したいことがあるだけだ」
やはり、おかしい。大臣を見もしない。
沙稀は再び歩き出す。大臣は迷いながらも、沙稀の背中をそのまま見送る。
その後、大臣は早々に業務を進めたが、一向に姿を現さない沙稀を気にする。『俺が鴻嫗城を継いだ』と言ってから、何もなしに沙稀が顔を出さない日はなかったからだ。
何度も時計を見て、先程の違和感が胸騒ぎに変わる。そうして、気づき大臣は驚く。以前の『何かを張り詰めた感じ』だったと。肌であの鋭い感覚を体感し、『違和感』と勘違いをしたと。
沙稀に平穏が戻ったというのに、どうしてしまったのか。キリの悪い書類を無造作に置き、大臣は慌てて沙稀を捜し始める。
稽古場や訓練場など、沙稀がいそうな場所を見て回るが、当然のようにいない。他も思い当たる場所をいくつかのぞいたが、結果は同じだ。
他に思い当たる場所といえば、残るはあの部屋くらい。考えにくいと踏みとどまるが、あの緊張感を肌で感じて、大臣は行かないわけにもいかない。
一刻も早く沙稀を見つけたかった。もう、浮かんだ場所から行くしかないと大臣は腹を決める。
意を決し、足を運んでみたものの──絵画が飾られている部屋へと続く扉は、施錠されていた。念のため、細い廊下の奥へ進んでみるが、まったくいる気がせず、踵を返す。
大臣は頭を抱えながら城中を歩く。いつになく城内を歩いたせいで、大臣は混乱していた。いくら長く仕えていると言っても、沙稀ほど城内の構造を把握しているわけではない。
大きなため息がこぼれる。もう、見当違いだと思うような場所でも、しらみつぶしに回るしかないと。
いそうな場所から回って今に至る大臣は、最もいなさそうな場所から回った方が出会えるかもしれないと逆転の発想をする。
それから大臣は道をしっかり確認しながら歩き、目的地へと着く。そこは、偽りの王が使っていた部屋。
今は誰も使っていない部屋だが、ノックをして開く。誰もいるはずがない──と思っていたが、人の気配に驚く。
床には、たくさんのファイルが散乱していた。
無造作に物が散らばる中で、リラの長い髪を見つけ、一瞬だけ安堵する。けれど、それはやっと見つけたという安心感だけで。散らばるファイルを漁る沙稀に、安堵は焦りに変わる。
「沙稀様？ 何を！」
大臣は沙稀に駆け寄る。錯乱しているような沙稀を止めようと、ファイルを新たに取ろうとした腕をつかむ。
「離せ！」
「何をされているのですか！」
間髪なく言われ、沙稀は動きを止めた。大臣の手を支えに、ダラリと力が抜ける。
「父上の記録だ」
大臣の頭は真っ白になる。唏劉の記録をなぜここで探すのかと。
「唏劉剣士の記録なら、おふたりの絵画が飾られているあの部屋に……」
「違う」
大臣の困惑を遮って否定した沙稀は、驚愕することを言う。
「生きている間の記録じゃない。『亡くなったとき』の記録だ」
一瞬で大臣の表情が厳しく変わった。
「それを調べて、どうしたいのですか？」
「安心したい。俺たちの父上が『父上』であると」
唏劉が本当に沙稀と瑠既の父であり、ふたりが産まれる前に亡くなっているなら、沙稀の不安はずい分減る。母である紗如が『父』以外の人を受け入れる可能性はないと信じる沙稀にとっては、膨らんだ考察を萎めるには充分な事実だ。
「なのに……」
スルリと、大臣の手から沙稀の腕が抜ける。
「どうしてだ？ なぜ、命日のわかるものがない！」
絶望があふれ出す。
本音を言えば、沙稀は唏劉に生きていてほしいだろう。憧れて、追いかけて、会いたいと願っていて、息子と認めてほしいのだから。
そんな思いを抱えながら、反する行動をしてまで唏劉の絶命の記録を求めている。だが、どちらも叶わないのだから、望みは絶たれたのだ。
沙稀はスッと立ち上がり、棚から一気にファイルを落としていく。慌てた大臣が立ち上がると、沙稀は振り返り両手で大臣の肩をつかんだ。
「大臣は……大臣は、知っているんだろう？ 俺たちの父上は『父上』だと……俺たちに教えたのは、大臣なんだから！」
沙稀は悲痛に叫び、項垂れる。その姿が辛く、大臣の胸がジリジリと痛む。視線を逸らし、大臣が重く口を開く。
