【36】呼び起こす想い(2)
「いいえ。沙稀様と恭良様のお気持ちが固まってからがよろしいかと思いまして。まだ、瑠既様と誄姫には話しておりません」
「そう」
身内での養子の場合、子どもには『養子』と告げてはいけないという暗黙のルールがある。子どもは養子の受け入れ先である夫婦の実子とされるわけだ。『実親』はもちろん、当然、他の者も口外してはならない。
「検討しておく」
静かに一言だけ残し、沙稀は即座に部屋を出た。
もし、瑠既と立場が逆だったならと沙稀は考える。いくら娘がふたりいるとしても、二つ返事で了承できはしないだろう。
しかし、感情を優先できないとも理解はしている。──大臣の部屋に行く前と同じだ。用意されている解は、ひとつしかない。
友人が養子に出したと言っていた子どもの名は、蓮羅といった。今は、捷羅と凪裟の嫡子だ。実親を知っている誰もが、事実を忘れようとしている。いや、蓮羅の両親は、捷羅と凪裟だと、思おうとしている。
疑いを持たなくなれば、現在が事実になるからだ。
苦しい。友人であるからこそ、苦しい。しかも、同等の想いを己のせいで瑠既と誄に背負わせる──のだとしたら。沙稀の胸は張り裂けてしまいそうだった。
淡々と歩いていた沙稀は、ある扉の前に立ち、驚く。どのくらい来ていなかっただろう。いや、避けていたに等しい。結婚してから──婚約してから、来られなくなってしまった場所だ。
そんな場所であるのに、鍵はいつでも持っている。それがまた、歯がゆい。ダミーがいくつも紛れているのに、正しい鍵はすぐに見つけられる。何年も見ていなくても、わかってしまう。
沙稀は、おもむろに鍵穴を回す。そうして静かに扉を開けば、人がひとり通れる程度しかない道が続いている。
吸い込まれるように、身を落とす。
扉を閉めても、明かりはつけずに進む。
──ここを歩くときの心境は、いつも似ている。
どっしりと、暗い。
意識が途切れ、戻り、恭良の護衛となってから何度も足を運ぶようになった。遥か昔に母と何度か来たときとは、まったく足取りが違う。
──母上を『母』と慕う恭良を、ここに連れてこられないのは……俺の、後ろめたさのせいだ。
慕っているのなら、母の絵画を見せるべきだろう。恭良が母の絵画を見たのなら、歓喜するのだろうから。日頃の沙稀の言動からすれば、真っ先にしそうなことだ。
自責の念に駆られる。恭良にも、母にも──父にも。
客間のような空間を通り過ぎ、奥の隠された扉を開けた。三方向からライトに照らされた、一枚の大きな絵画が現れる。
沙稀は見上げる。今は亡き母、紗如を。
「母上」
母のとなりには、沙稀が父と尊敬してやまない唏劉が護衛として描かれている。リラの長い髪は、沙稀が父の象徴として、ずっと強く心が引かれてきたものだ。
「俺は、今のまま……望んでいても、いいのでしょうか」
母が生きていたなら、何と言ったのか。
真実は聞けたのか。
赤ん坊を大切そうに抱き、微笑む母の記憶が蘇る。その赤ん坊は、母が妹だと言って、かわいがってほしいと願った──恭良だ。
「もし……もし、望んではいけないことだとしても……そのときは……」
沙稀の言葉は途切れてしまう。揺れた発言は、諦めようとしても、諦めきれないことのせいなのだろう。
そう、あれは、誄が二人目を宿したときのこと。
判明したその日に、瑠既は真っ先に報告をしてきた。恭良には沙稀から伝えた。
「うれしいね」
瑠既と誄の報告だというのに、恭良は我がことのように喜んだ。恭良の笑顔を見て、沙稀にも喜びが込み上げる。
そうして沙稀が微笑むと、恭良が抱きついてきた。
「私も、早くほしいなぁ」
耳元で囁かれた照れを含む言葉は、沙稀にとっては意外なもので。そこまで恭良が、子どもを望んでいるとこのときまで沙稀は、感じていなかった。
懐迂の儀式のあとに授かれず恭良は泣いたが、あれは責務を果たせなかったという思いだと感じていた。だから、純粋に『ほしい』と聞けて『女性』の本能なのかもしれないと思う反面、初めて聞けた言葉が、ただただうれしかった。
感動に近く、どうしても沙稀には忘れられない出来事になった。
「そのときは、どうか……どうか、俺だけに十字架を背負わせてください」
沙稀は深く頭を下げる。
どうしても、疑念が残っている。
唏劉は、恭良が生まれる前はもちろん、沙稀が生まれる前には他界していると知っていても。
恭良の母は──両親は、わからないままだ。沙稀は、あの偽りの王が恭良の父だとは、思いきれないでいる。生きている間は、信じていようとあれほどまで思えていたのに。
足元に、いくつも雨のような雫が落ちる。紗如への、唏劉への、懺悔。
沙稀が寝室に着くと、恭良がちょこんと座っていた。気持ちの揺れが恭良に伝わっていた気がして、すぐに沙稀は手を伸ばす。強く抱き締めてしまえば、壊れてしまうような儚い存在──それは、ふたりの関係のようにも思えた。
恭良を腕の中に抱え、沙稀は自然と彼女を求めていく。
想いが伝わるようにと肌を合わせていれば幸せで、辿り着いた考察に囚われずに済んだ。ともに同じ望みならば、いつかは授かるものだと手を重ねて願う。
手を伸ばし、愛しい肌に触れる。包むようにやさしく触れる一方で、沙稀は自らの衣服を脱ぎ、水面を滑るように抱きつく。
子宝に恵まれないまま歳月が流れて、五年近くが経った。幸せな歳月は、言葉通りにあっという間だった。
幸せな願いのはずなのに、思春期の不安を思い起こす。変化した色彩、その先を考えて直視した不安だ。
思春期のときは、もう城を継ぐことはないと思っていた。結婚も、しないのだからいいと思っていた。けれど、結婚してから突き付けられたような不安は大きくなる一方で、次第に心を支配していった。
本当は、『俺のせいだ』と言えばよかった。その思いも年々強くなる。そうして、愛しさが劣情のように感じてしまう。
華奢な体は、白く細い。雪のように、溶けてなくなってしまいそうだ。
ふと、恭良は沙稀と視線が合い、微笑んだ。それだけなのに、沙稀は強烈な自責の念に駆られていく。
強く抱き締める。失いたくなくて。
一方、力強く抱き締められた恭良は、幸せだった。だが、沙稀の様子がおかしいと気づく。沙稀は、微かに震えていた。
「沙稀?」
彼は堰を切ったように涙を流す。
「どうしたの?」
恭良は驚いたものの、やさしく声をかける。沙稀は何かを言おうとしているようだが、声は聞こえてこない。
沙稀は右手で恭良の左耳をなでると、そのまま唇を合わせた。




