【３５】願い（２）
『裏切者』と聞こえない悲鳴の結晶が、玄の頬を滑り落ちていく。
「知っていた」
交わした言葉は、たったそれだけだ。玄は羅凍を罵るでもなく、羅凍は何も言えなかった。
男児であれば、産まれてすぐに兄夫婦の子となる──羅凍はもちろん、玄も抱けず、一番に見ることも叶わない。羅凍は自身が結婚するときは、そういう役割だと、知っていた。
玄は発してしまえば止まらなくなると口をつぐんでいたのか。けれど、その瞳はしっかりと羅凍を詰る。
羅凍が真正面から受け止めようとしているのに気づいたのか、玄はふと顔を背けた。
──よかった。憎んでくれていい。
──いっそ、別れてほしいと言ってくれれば、よかったのに。
羅凍は踵を返す。
物は考えようだと、いつから思っていたのか。玄のお腹が目立っていくにつれ、男児であればいいと願うようになっていた。
男児であれば、役割が終わる。
ただ、期待と同時に玄への罪悪感が日に日に膨らんでいった。玄は愛情で満たした瞳をずっと向けてきていた。愛情よりも憎しみで満たした眼差しを向けてくれたら、どんなに楽になるか。
ずっとそう思っていたはずなのに、どうして居ても立っても居られなくなったのか──羅凍はわからなかった。
後日、羅凍は命名権の指名を受けた。思いがけない兄からの指名に、羅凍は頭を悩ませる。兄から指名を受けたが、兄夫婦からの指名だ。凪裟が同意していないわけはない。
そうして、命名の場が設けられる。その日、羅凍は数日ぶりに玄に会い、けれど、玄に笑顔もなければ、羅凍を見ようと視線を上げることもなかった。
玄の様子にショックを受けるよりも、どこか安堵して、少し離れて羅凍はとなりに座る。すると、兄が入室して、赤ん坊の泣き声が聞こえて、凪裟が大切そうにちいさな存在を抱えてやってきた。
玄は立ち上がったが、無意識だったのだろう。凪裟がにっこりと笑って座ると、玄は我を取り戻したように恥じらい座った。
座った兄が羅凍に命名書を催促する。羅凍は言われるがまま、兄に渡す。
「蓮羅……わあ！ いい名前ね！」
歓喜を上げた凪裟が『ありがとう』と羅凍に微笑み、さっそく赤ん坊にその名を呼ぶ。そうして、『名前にお花の漢字があるわ』と、兄夫婦は盛り上がりいそいそと花言葉を調べていく。
「神聖、清らかな心……だって！ いい子になるわね」
凪裟の明るい声は、羅凍をすり抜けていった。
蓮の花は、泥水の中からしか立ち上がってこない。羅凍にとっては、人生は泥水で、もがいてきたようなものだ。
だからこそ、人生が泥水であろうとも、そこから立ち上がって大輪の花を咲かせてほしいと、羅凍は願った。こう考えられたのは、哀萩の影響が大きい。
凪裟の言葉に、兄は『本当だ』と幸せを分かち合う。仲睦まじく夫婦だけで幸せを共有していればいいのに、ふと、兄は玄にも花言葉の一覧を見せた。
本を受け取った玄は、一ヶ所を凝視する。
羅凍が横目でのぞき込むと、同様にある一文で釘付けになった。玄も同じものを凝視しているのではないかと、自然と思えてならなかった。
『離れゆく愛』
これから愛を注げると思っていた存在が離れていった玄。羅凍にとっては──。
「これから……」
珍しく玄が自ら意見を言うのかと、羅凍の視線が動く。
玄は、うっすらと瞳を滲ませていた。
「これからおふたりが、かわいがって育ててくださるのですから、羅暁城の跡継ぎとなるのですから……こんなにうれしいことは、ありません」
内心は発言と裏腹なのだろう。どっしりとした思いとともに涙が落ちていく。
「玄さん」
「ごめんなさい」
思わず出た羅凍の呼びかけを振り払い、玄は部屋を出ていく。
ズキリと心が痛んで、つい呼びかけてしまった。玄と今後、どうにか夫婦を継続したいと思ったわけでもないのに。それが余計に、ズキズキと胸を痛め付けた。
玄は、本音を一言も言っていない。それなのに謝罪を残して去ったのは、一言も本心ではないからだ。
裏腹な言葉を発する気持ちが、羅凍にはよくわかる。だから、まざまざと玄がどういう心境なのかが伝わってきて、ああ言うしかなかった苦しみまで伝わってきた。
羅凍は立ち上がる。玄を追っていこうとして、その前に正面にいる兄夫婦に瞳が固まる。
『浮かれすぎだ』とも、『玄さんの気持ちを考えろ』とも、言葉が募った。気持ちの赴くまま罵ろうと言葉が喉に押し上がってくる。
だが、羅凍は開きかけた口をグッと閉じる。
凪裟は、子を授かれないと結果をどこかで聞いたはずだ。玄も事情は察していただろう。能天気な兄はともかく、凪裟を思い、耐えた。
母は凪裟との結婚を反対しただろう。能天気そうに見えるこの兄は、あの母の反対を押し切ってまで凪裟を選び、結婚後も守っている。──そんな夫婦に、怒りはぶつけられない。玄も蓮羅も立場も何もかも一度は捨てようとした身だ。
羅凍は玄を追おうと、退室する。だが、しばらくして羅凍の足は止まった。
出産後に会ったときの光景が鮮明に浮かび、玄と会ったところで、何を言えばいいのかと。結局、羅凍は小綺麗になった自室へと向かった。
あのときの空しい感情がどうしてなのか、未だ理解ができていない。
「元々、子どもがほしいとか育てたいとか、家庭を築きたいとか……そんなことを思い描いたことがなかった。兄上は、むしろずっとそう思っていたと思う。だから、きっと蓮羅は幸せになる」
何とか納得しようとするように羅凍は言う。
胸のつかえがなくなったのか、無表情だった羅凍が急に気まずそうな表情を浮かべる。沙稀に申し訳なかったと思ったのかもしれない。
場を取り繕うように、羅凍は言う。
「沙稀はさ、跡継ぎが～っていうわけじゃなくて、純粋に望んでいるんでしょ？」
「え？ あ、うん……まぁ」
唐突な質問に、沙稀の血色が徐々に増していく。明らかに照れる様子に、羅凍はパッとうれしそうに微笑んだ。
「沙稀と恭良様のような夫婦のもとに産まれたら、幸せだろうね。あ～あ、早くふたりの間に授かりますようにって、俺まで願っちゃう」
純粋に言う羅凍に対し、沙稀の顔面からは炎が上がる。
「何言ってっ！」
顔の熱さを自覚してか、沙稀は咄嗟に顔を腕で隠す。
「からかっては、ないよ？」
「絶対に嘘だ」
顔を逸らした沙稀だが、ふと数名の剣士が目についた。
パリン、と沙稀の逆鱗に触れたのかは、わからない。ただ、沙稀が剣を抜いたのは、無意識だ。
剣士たちがどんな妄想をしたのかは、ご想像にお任せするとして──沙稀は訓練を怠るなと、剣士たちに喝を飛ばした。
あとがき
参考：https://www.kgad1936.com/buddhas-teachings より
お釈迦様の台座が なぜ 蓮の花 なのか
メモ
蓮の花は泥水の中からしか立ち上がってこないのです。泥水とは人生におきかえれば、つらいこと、悲しいこと、大変なことです。蓮の花とは、まさに人生の中で花を咲かせること、そして、その花の中の実が 「悟り」。
蓮の花の花言葉 「神聖」「清らかな心」「離れゆく愛」
