【３１】自覚
「ああ……俺、大浴場に行ってくるから好きに使ってていいよ」
そう言って、あの日は自室を出た。
──兄上はいないだろうし。
凪裟が越してきてから、捷羅の部屋は変わった。これまで母が自室を変えてみてはと何度も言っていたようだが、ようやく変えたのだ。
禾葩がこの世を去り、ほどなくして捷羅の部屋は浴室を使用できなくされた。捷羅はそうされても尚、断固として部屋を変えず、大浴場を使用していた。──それを知って羅凍は大浴場に近づかなくなった。だが、今度は捷羅が近づくことはないだろう。
案の定、大浴場には誰もいなかった。
久しぶりに来た、だだっ広い浴場で羅凍は寛ぐ。体を一通り洗い、心を解放し子どものように存分に泳ぎ始める。
風呂に入りに来たのか、泳ぎに来たのかわからなくなるくらいに泳ぎ、休み、何時間も過ごしたあとも羅凍は自室に戻ろうとしない。
風にあたり、時間が過ぎるのを待つ。
真夜中になり、玄が熟睡したころに戻ろうと考えていた。先に相手が寝ていれば、同じベッドで寝ることも気にならないだろう。相手が熟睡していれば、置物と変わらない。誰かがいると、意識しないで済む。──そう己を慰め、ぼんやりと心を休める。
深夜になり、ようやく羅凍は自室へと戻った。
玄はひとり眠っていた。ただし、ソファの上で。羅凍の表情に渋みが浮かぶ。そうして、心が痛む。
ひとりで来て、極度の緊張と疲労があっただろう。それなのに、いつ戻るかわからない羅凍を待っていたのが明白だった。
──やさしい気持ちに応えられないだけでも、申し訳ないのに……。
玄に対し、冷たい態度をとっている自覚は持っている。女性に不慣れゆえだが、羅凍にその認識はない。
眠る玄を見て、起こそうかと考える。ただ、起こしてしまえば時間をつぶしてきた意味がなくなる。
仕方なく羅凍は、玄をベッドに運ぶと決める。けれど、女性を抱き上げたことなどない。触れるだけでもためらうのに、過度の至近距離を想像して絶望する。
女性不信でも女性嫌いでもない。ただ、好意を持たれていると実感しているだけに、扱いにくい。それでも何とか抱き上げたが、ここで目が覚めたらと想像し、生きた心地がせず血の気が引きそうになる。
さっさと玄をベッドに横たえ、自らも素早く入り明りを消した。玄に背を向け、まぶたを閉じる。
こんな毎日が過ぎていくのかと頭を抱え、眠りに落ちることを願った。
「お先にどうも」
声が聞こえて、現在へと羅凍の意識は戻る。濡れた彼女の髪を見て、なぜか玄の濡れた髪を思い浮かべた。
「いいえ」
つい敬語が出てしまい、この数ヶ月でしみ込んだと気づく。
羅凍は立ち上がり、哀萩がいなかった間の記憶をさまよわせながら風呂場へ足を運んだ。
戻りたいと願うわけでもない。
迷っているわけではない。
未練もないのに心がかき乱れるのは、ひどい後悔のせいだ。
体を洗い始め、羅凍は苛まれる。これまでの数ヶ月間で一番ひどい。未だ玄にした行動を信じたくない。特に、今になってまた痛感している。
羅凍は性に無関心だった。自らの性別を意識するのは、哀萩を想うときくらいなもの。哀萩が好きだと自覚してから、別の人を同じように意識できるかと何年も試してみたが、無駄だった。
だからこそ無駄な告白もしたし、開き直ったりもした。不都合はないと思っていた。羅凍は次男。無理に結婚しなくてもいい立場だと楽観的でいられた。
捷羅が性に奔放になってからは、より無縁に感じた。けれど、反比例するように嫌悪が募り、露出を避けるようになった。人前で髪をほどくことも、抵抗を感じるようになっていた。
結婚の話が湧いて出て、哀萩が出ていき、玄が来た。
話が水面下で進められていると感じたときから、その理由は明確で──だからこそ抗おうとしたし、哀萩を引きとめようとした。
哀萩以外を触れたいと思えないと心が叫んで、一方で理性が触れられないのは承知の上だと啖呵を切った。
けれど、足掻いたところで打破できず。玄と再会して、回ってきた役割を受け止める覚悟を持たなければと思ったが、それはまだまだ先だとどこかで思っていた。
心とは裏腹に、体は欲していたのかもしれない。
女性の感触を知ったときの記憶を断片的に思い出し、何度も打ちのめされる。
忘れたいと願う心とは真逆に、体は鮮明に覚えている。
玄に背を向け、そのまま羅凍はウトウトした。そのうち、背中にあたたかさを感じ、それは違和感に変わった。
玄は眠っていたし、羅凍自身も意識が鮮明ではない。だから、安易に夢と判断をした。夢にも感触があるなんて思いつつ、背中にくっついている人物が気になってくる。
──誰だろう。
自ら望む人物は、ひとりしかいない。期待して振りむくと──見えたのは、想い人によく似た髪の毛の色。
哀萩が出ていった悲しみと、愬羅から受けた長い拘束の疲労のせいもあったのかもしれない。夢か現実かの区別が付かぬまま、羅凍は何て都合のいい夢を見ているんだろうと幸せに包まれる。
夢ならと、手を伸ばす。抱き締める。夢の中だけでいいとずっと募らせていた想いを、大人しい腕の中の人に求めていく。
もう、哀萩に会える日はこない。
折角こうして一緒にいられるのなら、幸せでいっぱいの夢にしてしまいたかった。
周囲がどう言おうが、思われようが、弁解の余地はない。最低なことをした自覚はある。
違和感を覚えたのは、聞き慣れない声が聞こえたとき。
想いの込められた腕で抱き締め返され、まさかと血の気が引いた。
腕の中で大事にしていたのは玄で、現実だと気づいたときには──すでに後戻りはできなかった。
青藤色の長い髪の毛は、暗闇で彼女の髪の毛の色と酷似すると、羅凍は初めて知った。
玄の濡れた髪を見たのは、それからまもなくのことだ。ズキリと胸が痛んだ。
忘れたいと願いながらも数週間後に婚礼は行われ、少ししてから玄は妊娠したと言った。
まざまざと突き付けられた現実。胸に刺さり、棘は抜けなくなった。
周囲から祝いの言葉を聞く度に、棘が深く刺さる。
玄の妊娠を知ってからは、濡れた髪を見るのが日常的になっていた。現実から目を背けるように心は凍り、沙稀が来た。憧れの友人の言葉を受け、心が少し溶けて玄を大事にしようと心がけた。
身重な玄をできる限り気遣ったけれど、何度も反射的に避けてしまいそうにもなった。
玄からの愛情は伝わっていた。しかし、それを受け止めることも、返すこともできない。
ちいさな浴槽に身を沈め、羅凍はいくつか涙を落とす。涙が波紋を作っていたが、ちいさな波が消した。顎が浸り、やがて頬まで羅凍は湯に浸した。
