【30】憧れ
周囲の視線を感じ、哀萩は羅凍に座るようにと促す。グルリと店内を見渡した羅凍は、慌てて座った。
哀萩はからかうように小声で言う。
「嘘がよかったの?」
「違う」
横に首を振る羅凍。よほど恥ずかしかったのか、顔を上げようとしない。
哀萩は楽しそうに笑いながら、またからかうように小声で言う。
「冗談がよかったんなら、冗談にしてもいいよ」
「嫌だ。そうじゃなくて……っていうか、え? 本当に? え、本当にいいの?」
うれしさのあまり混乱し始めた羅凍に対し、彼女は冷静だ。からかうでも笑うでもなく、ただ呟く。
「髪」
そう言われて、初めて羅凍は意識する。決別する気はあったのに、城を出るとき『切る』という選択肢が浮かんでいなかった。
「切ればいい?」
貴族が生家との絶縁を願うなら、真っ先にすると判断したのだろう。意思表示が足らなかったとばかりに、迷いがなさそうに言う。
その様子がおかしかったのか、哀萩はクスクスと笑う。自身が『貴族』だと意識しない彼にとって長髪は、単に幼少期からの慣例と感じたのかもしれない。
「私、羅凍の髪も好きだから。羅凍が気にしないなら、切らないで」
楽しそうに笑う彼女を前に、羅凍は耳を疑う。
「『も』? 『も』って何。いや、言わなくていい。聞きたいけど……聞きたいけど、言わなくていい」
混乱し、何を言っているかさえ把握できていないようだ。明らかに動揺する羅凍を前に、彼女は無邪気に笑う。眉を下げ、うれしそうに。
いつの間にかパフェを堪能するより、再会したうれしさを堪能したふたり。喫茶店を出て歩き始めると、どちらともなく、手を繋ぐ。
羅凍は夢見心地だ。
「俺、からかわれているだけでもいいやって思える。いや、嫌だけど。そうじゃない方がそりゃ、うれしいけど……」
幸せに動揺する羅凍を見上げ、彼女はいたずらな笑みを浮かべた。
「じゃあ、からかってるだけにしようかな」
途端に手を離し、彼女が走り出す。
羅凍は『あ』と声にならぬ声を上げ、彼女の背中を追う。すぐに追いつき、後ろから抱き締める。
「捕まえた。本気だと言わせてやる」
幸せすぎて怖くなる。
ふざけてじゃれ、彼女と笑い合う。そんなわずかな時間が過ぎて、ふと笑いが止まったとき──向かい合った彼女の無防備さに羅凍は気づく。
彼女との関係性が変わった。
今更ながら意識した羅凍は、ドキリとして彼女から手をパッと離した。
「どうしたの?」
何度か、これまでに似たようなことを体験した気がした。ドクドクと鼓動を感じながら羅凍が思い返してみれば、これまでに彼女が突然離れたことが何度かあった。
羅暁城で過ごしていたときは羅凍が気づかなかった間を、彼女は感じていたのだろう。今は、立場が逆になっただけで──そう考えると、苦笑いするしかない。
「ううん」
とはいえ、彼女が出て行く前の羅凍なら、この間に気づいていたら迷わずに隙を突いただろう。惜しいと後悔しても遅い。
それに、咄嗟に離れてしまったのは、心の片隅に罪悪感があるからだということまで、気づいてしまった。
「そういえば、となりの家に……父上がいるんだよね」
あからさまに羅凍の顔色が曇る。
「あ~……」
哀萩が手を繋ぎ直し、大袈裟に振って歩き始める。羅凍も、従ってゆっくりと歩く。
「今日は……不在にするって」
父の配慮、つまり思考を読まれていたと思えば、羅凍が素直に喜べなくても仕方ない。
「そう……」
つくづく親子だ──と、羅凍は笑う。ただ、今日は父のことも忘れ、ふたりだけで過ごせる幸せを満喫しようと決める。
「鍋が食べてみたい」
「何それ」
彼女が笑う。
「いいじゃん。食べてみたいんだ」
城内で鍋は出ない。だからと言って、城下町で食べられるものでもない。貴族と離れたところでは、度々食べられるものだと羅凍は聞いていたが、耳にしていただけだ。
どんな味なのかは、想像が付かない。ただ、彼女は知っているはずだし、彼女と食べるならおいしいと妙な確信を持っている。
「じゃあ、今晩は鍋で決まりね!」
鍋は冬の定番だもんねと、羅凍の知らないことを楽しそうに言う。
やっぱり、哀萩が好きだと胸が高鳴る。
羅凍はいつの間にか一緒になって笑っていた。
立ち寄ったことのないような店に何軒か入り、食材を買う。野菜をいくつか買うだけで結構な重さになると初めて知り、重い物をすすんで持ち、ちいさな家の並ぶ方向へと歩く。
楽しい時間は足早に過ぎて行き、日が暮れ始めていた。
「ここよ」
こじんまりとした店のような大きさの家だが、彼女がひとりで住んでいるなら、広い方なのだろう。外見のちいささに驚いた羅凍だが、比較対象が城だったと気づき、反省しながら中に入る。
自室よりも狭い印象だ。けれど、憧れてきた普通の生活がこういうものだと目の当たりにして、喜びが沸いてくる。
個室のような鍵を締めると、彼女はすでにキッチンに立っていた。その光景を、羅凍は胸の中にしっかりと焼きとめる。
しかし、幸せに浸るのは束の間。彼女の不得意なことを思い出し、キッチンへと向かう。
「座ってていいよ」
なぜか彼女は得意げだ。だから、羅凍は『俺もやる』と言った。
「だって、哀萩が料理得意じゃないって知ってるし。俺、おいしい物が食べたいから」
余計な一言に、哀愁の言葉が詰まる。
「ん……っとに! 羅凍は失礼ね」
彼女は包丁を強く握り、うつむく。
哀萩が怒りを覚えているというのに、羅凍はなぜか幸せそうに笑う。
「知ってるでしょ?」
羅凍は夢心地でフワフワとしていそうだ。それはそうなのかもしれない。哀萩と一緒にキッチンに立てる日がくると、想像したことがなくて。感じたことのないくらい、心が幸せに満たされているのだろう。
哀萩はというと、弾んだ声に顔を上げ──しばらく固まった。
彼女からすれば、ニ十センチ以上背の高い彼から、幸せが降り注いでいるように感じたのかもしれない。
「ん?」
羅凍が首を傾げると、哀萩は慌ててまな板に顔を向けた。
トントントン
カチャリ、コトン
野菜を切る音から、鍋のふたを置く音や食器の並ぶ音へと、羅凍の耳に入ってくる音が変化している。
幸せを象徴するような音だ。
おだやかで心地よい時間は過ぎていく。
食事中、羅凍は時間が永遠に止まればいいのにと願った。
誰かと一緒に食事がしたいと望みながら生きてきた。それが、叶った瞬間だ。
ずっと想いを寄せてきた人と何を食べるかと話し、食材の用意をして、ともに作り、談笑をして食卓を囲む。
こんなひとときを、過ごせると思っていなかった。
羅凍からは、幸せがあふれている。
幸せそうな彼を、彼女は湯気を挟んで見ていた。
湯気のお蔭で照れが多少なりとも軽減されたかと思えば、彼女にはおかしいとしか言えない出来事だった。
夢のような時間だったが、現実だ。
日はとっぷりと暮れ、時計は眠る時間がやってくると刻々と告げている。
食事の片付けを終えると、彼女は慣れたように風呂の準備を始める。それが羅凍には、奇妙な行動に映る。
「先に入る? それとも、一緒に入る?」
「先に入る! ……いや、やっぱりあとにする」
一緒には無理だと即答したのに、風呂上りの彼女を想像して直視できないと答えを変える。すると、後者は冗談だったと笑い流すように、
「じゃあ、お先に」
と、彼女は風呂場へと姿を消す。
そうして取り残されてから唖然とし、異常に慌てたと振り返る。
就寝前に風呂に入るのは自然なことで、一般的には自らが用意するのも自然なことだ。──自覚していた以上に、根本が貴族だと嫌気が差す。
雨の音に似た、シャワーの音が聞こる。
玄と同じ部屋となった日の夜の記憶が、いつの間にか羅凍の脳内で再生し始めていた。




