【29】再起
翌日の早朝、羅凍は草原を歩いていた。昨夜、玄に『明日は戻らない』と告げて。
「わかりました」
悲しいでもなく、嫌でもなく、ただ一言だけ玄は答えた。その様子に、父の言葉が過る。
『玄さんを裏切る行為だとしても?』
羅凍は胸が痛んだが、後戻りをする気はない。
いつ戻るか、いや、果たして戻ってくるかもわからない。何日も日が経てば経つほど玄を苦しませるだろうと思いつつ、羅凍は言葉を伝えた。
──ずるいな、俺は。
もう戻らないと言えるほど、自信があるわけでもない。ただ、一日は戻らないとだけ決めていた。
哀萩に数ヶ月振りに会えるというのに、羅凍の足取りは軽くない。
目的地は羅暁城から北に位置するちいさな町。哀萩の故郷だ。羅凍が行ったことは、もちろんない。
歩きながら思いを巡らせる。父と哀萩の母のことを。
父が愛した人だと知っても、憎しみは湧かなかった。むしろ、『ああ、そうか』と気持ちが楽になったという方が正しい。父が羅凍に、家族に無関心なことに、しっくりときたから。
しかし、今は複雑だ。
父と同じ行動をしているようで、父とは違う。何を取り払っても羅凍と哀萩は、決して結ばれてはいけない繋がりがある。
最後にやっと聞けた、哀萩の本心。諦めたと言われ、また会ってもいいと言ってくれるとは思っていなかった。
これまでも、何度も最後だと思ってきた。けれど、今回が正真正銘、最後なのだろう。
全部を捨てる覚悟で来たが、彼女次第だ。
身分を取り払うように、なるべく身軽な物を選んで身に着けてきた。できるだけ質素になるよう心がけてマントも剣も置いてきた。
剣がなくても、護身術は身につけてある。
草原を抜けると、遠くに建物が見えた。ちいさいが、町だ。
──この先に……。
羅凍は両手に力を入れ、力強い一歩を踏み出す。
ほどなくして、羅凍は町に着いた。手紙に書かれた場所の前で、店を確認する。
ちいさな喫茶店だ。しかも、辺りにはこの店しかない。間違いないのに、すぐに入れずにいた。
カララン
不意に、金属音が鳴った。羅凍は驚き、視線を送る。入ろうともしていなかったせいで、扉に気づけなかったのか。開いている扉を見て、声も出せなかった。
「どうぞ。お席ありますよ。おひとり様ですか?」
明るい声で店員は話しかけるが、羅凍は愛想を返せない。
「あ……いや、待ち合わせで」
「女性の方ですか? お待ちですよ」
羅凍は一気に赤面する。その照れは、伝染したかのように店員の頬をほんのりと染めた。
「どうぞ」
にこやかに誘導されては、とどまっていられない。羅凍は恥ずかしさをこらえ、足を踏み出す。
顔の熱が早く冷めてほしいと願う。彼女に会えるのだから、少しでも格好よくありたい。
店員がひとつの席を示す。その先を追えば、彼女の後ろ姿が見えた。一気に緊張が増し、短い距離を遠くに感じながら歩く。
熨斗目色の髪を見下ろして通過し、対面する椅子へと座る。
「久しぶり」
正面を直視できないまま座ると、
「久しぶり」
と、昔聞いたやわらかい声が返ってきた。こんなにやわらかい声色を聞くのは、五年以上ぶりで──羅凍は思わず視線を上げる。
彼女は、最後に会ったときが嘘かのように、とても幸せそうに笑っていた。
「お父様から聞いていたけど……本当に質素な感じになったのね」
楽しげにクスクスと笑う彼女を見て、変わらず彼女の中に己の存在があったと実感し、感極まる。羅凍は視界が滲み、咄嗟に視線を逸らす。
すると、先ほどの店員の姿があった。
「オーダーがお決まりになりましたら……」
「パフェと紅茶をお願いします」
羅凍の前に水を置く店員に、彼女は楽しげに注文する。お蔭で羅凍の視界は鮮明さを取り戻す。
「俺にも同じのを」
「は?」
気の抜けたような彼女の声を聞きながら、羅凍は水を一口飲む。
「ねぇ、ちゃんと聞いてた? 私、パフェ頼んだんだけど」
「聞いてた。俺も同じのが食べたい」
不服そうな声に、同様に返す。一触即発しそうな雰囲気が漂う中、
「かしこまりました」
店員は笑いをこらえたように言うと、姿を消した。痴話喧嘩だと笑いたかったのだろう。ふたりの間に、沈黙が漂う。
押し黙る空気の中、羅凍が口を開く。
「父上に……何度も会ってるの?」
「うん。何度も」
「ふ~ん」
自ら振った話題に興味なさそうな態度を羅凍はとる。だが、お構いなしに哀萩は続ける。
「と、いうか……となりに引っ越してきたの。引っ越しのあいさつだって、お父様がいらしたときは驚いたわ。しかも、開けた早々『一緒に住まない?』とか言うのよ?」
信じられないでしょと言いたげな口調のあと、ふうとため息をつく。
「まったく……そういう台詞は、もっと違う場面で言われてみたかったわ」
「一緒に住みたい」
間髪なしの羅凍の言葉。
しばしの沈黙が流れる。すると、
「パフェと紅茶をお持ちしました」
と、明るい声が響いた。場の空気は一瞬にして変わり、店員は業務的に置いていく。
「ご注文の品は、お揃いですか?」
「はい」
笑顔の店員に、ふたりの声が重なる。
店員は下がっていき、羅凍が返答を求めるように哀萩を見る。けれど、哀萩は羅凍を見ようとしない。ただ、ポツリと無表情な呟きが落ちた。
「おめでとう」
彼女は視線をパフェに移す。長いスプーンを持ち、パフェの上部をすくう。
「聞いたの。お父様から。玄さん……」
「哀萩」
彼女の言葉を遮った羅凍は、
「一緒に住みたい」
と、もう一度告げる。
彼女は少しすくったパフェの上部を口に入れると、しっかりと羅凍を瞳に映した。
「それ、本気で言ってるの?」
「もちろん」
哀萩が長い息を吐く。
「玄さんを……家族を捨てるんだ。それがどういうことか……くらい、わかっているの?」
「わかってる」
静かな怒りが込められているような彼女の瞳を、羅凍は見つめて受け止める。
彼女は母子家庭で育ってきた。母と過ごしていた日々は、父に捨てられたと思ってきたのかもしれない。いや、父と出会ってからも長い間、恨んでいたのかもしれない。
貊羅の様子からして、哀萩の母を無下にしたとは想像しにくいが、相手がどういう気持ちでいたか、わからない。
玄はどうだろうか。
何も言わなかったが、いつか憎らしいと恨まれることがあるだろう。
愛人を作って姿をくらませたとなれば、羅凍が忌み嫌っていた貊羅以下。誰に何を言われても、文句のひとつも言えない。
何もかもを失うが、羅凍にとったら大したことではない。ただひとり、そばにいてほしいと願う人と一緒にいられるのであれば。
数秒、ふたりは何も言わずに互いを直視していたが、羅凍はふと長いスプーンを手に取る。
羅凍の行動に、彼女もパフェを食べる。次第に黙々と食べる彼女につられて、羅凍も無言で食べた。一口、二口と続くと、
「そうなんだ」
ポツンと彼女が言う。
けれど、浮くことなく、ずっしりと重い。『身勝手だ』と言われているようで、羅凍は身構える。
だが、正反対な言葉が聞こえた。
「いいよ」
反射的に羅凍は立ち上がる。カランと手元からスプーンを落として。
「嘘?」
ちいさな店内に声が響く。
百八十を超える長身は、こじんまりとした空間で際立っていた。




