【22】遮断
スッキリと起きられなくても身支度を整え、義両親と談笑しつつ朝食をとる。鴻嫗城で勉強をしてくると伝えれば、にこやかに見送られ午前中が始まる。
鬼教官と揶揄している恭良から学びを受け、ふと気づけば午後が近くなり──誄を思い浮かべる。
誄は、克主研究所に着いている。今頃は何をしているのかと多少の苛立ちと、今日も帰ってこない物悲しさがじんわりと湧く。
用事を済ませば、正午の船は逃すと考えるのが一般的だ。
一泊し翌朝の船に乗り、また日をまたいでようやく梛懦乙大陸に到着する。これらは、誄が梛懦乙大陸を発つ前からわかりきっていたこと。
──何を今更……。
行くなと止めたい気持ちもあった。けれど、わざわざ克主研究所に行かなくてもいいじゃないかと言えないのは、弱い気持ちのせいだけでもない。
どの書類でも、輸送でいいと判断できるほどの知識がない。いや、そういう知識のある大臣や恭良が、誄を止めないのだからわざわざ行く必要があるのだろう。
経営や運営は、人付き合いが必要不可欠だと、宿屋にいたときに知っている。書類のやりとりだけではないかもしれない。
誄がどういう認識で行動しているかまでは、知るところではないが。
なるべく鈍感でいようと瑠既は努める。気にしてしまえば、きっと誰かが気づいてしまうと考え、誄を一時忘れようと努める。
仲良くなるつもりもないのに、恭良に学びを請いている。それだけ、教養が乏しい。現状をさらしても、恭良は蔑みも落胆もしないだろう。過去に一日でも、学びをともにしたことがないのだから。
邪魔になりすぎない程度に恭良に付き学んだあとは、沙稀とじゃれてから鐙鷃城へ戻る。
昔よりもはるかに賢くなった双子の弟と子どものころのようにはしゃげば、そこはかとない安心感が得られる。
鐙鷃城へ戻り義母とお茶をして、眠気が襲ってくるまで義父の趣味に付き合う。孤独がなく、ありがたい。
長年の不在が嘘かのように、義両親はかわいがってくれる。
こうして一日の平穏に感謝し、安心して眠りにつけば、朝がやってくる。
誄が帰ってきて、また何日かすれば克主研究所へと行く。──その繰り返し。
無難に過ごすことに慣れたのは、一ヶ月が経とうとしていたころ。
変化があったのは、楓珠大陸にあと一、二回行くと誄が言い、帰ってきた日の夜だ。
ふんわりとした雰囲気の誄が、いつになく真剣な眼差しを瑠既に向けた。
「瑠既様、お話があります」
こんなにもしっかりとした口調を聞いたのは──婚約を白紙にしようとしたとき以来で、瑠既の胸はざわつく。
「何?」
いい話ではないかもしれない──そんな不安が過る。楓珠大陸に行くのはあと一、二回だと誄が言っていた。そのうちの一回が終わった。残りの一回があるかもしれないが、もしかしたら、戻ってくる気がないのではないか。
様子を見ようと、何も言わずに過ごしてきた。この一ヶ月間で、関係が切れたように見えるかと言えば、それはない。
誄は懸命に隠しているつもりだろうが、まったく隠しきれていない。首元をわずかに隠しもれ、浮気の証拠を周囲が目にしても、瑠既と仲良くしていると思っただろう。
挙式の日を最後に手すら触れていないのは、誄と瑠既しか知らないことだ。人前で妃に触れないのは、不自然でもない。むしろ、貴族なら品を気にして寛容な受け止め方をするだろう。大臣や沙稀が好意的に受け止めているのは、容易に想像が付く。
別れてほしいと告げられれば、了承するしかないと覚悟する。かわいがってくれた義両親には、自身が至らなかったと詫びるしかない。
誄が息を吸い、言いにくそうに口を開く。
「そろそろ……」
──そりゃ、そうだよな。
別れたいと言われて当然だ──自らを納得させる言葉が浮かんだと同時、想定外のことを誄は言った。
「三ヶ月と言われました」
瑠既は耳を疑う。悲しみに襲われると思っていた予想は外れ、喜びがじわじわと込み上げる。
心当たりがある。
似た台詞を、二十一歳のときにも聞いた。
思いは、そのときとまったく変わらない。
恐れなく、スッと手が伸びる。両腕でしっかりと離さないよう、瑠既は誄を抱き寄せる。
「そう……俺、親父になるんだ」
こんな幸せは、他にない。
以前に似た台詞を聞いたときは、入籍していなかった。けれど、誄とは入籍しているのだから、前回のような裏切りはないだろうと安易に安心をする。
我が子を失ったときの悲しみを、忘れたことはない。
ゆっくりと背中に回ってきた手に、瑠既は緊張をする。だが、その緊張を打ち消すような、震える呟きが聞こえてきた。
「私を……責めないのですか?」
「言わないよ」
「疑わないのですか」
「お腹の子の、父親をってこと?」
誄はうなずく。
「その時期なら、俺でしょう。それとも、望んでいなかった?」
冗談を言うような瑠既の明るい声に、誄は悲痛な叫びを上げる。
「そんなことは!」
言葉を詰まらせた誄を、瑠既は強く抱き締める。すると、今度は今にも泣きそうな声が聞こえた。
「どうして、ですか?」
ふと力がゆるんだ瑠既の胸元から、誄が見上げてくる。瞳を潤ませる誄を見ても、瑠既は幸せいっぱいで、かわいいと照れ笑いしか浮かべられない。
相容れないせいか、誄の涙はボロボロとこぼれ落ちる。
「どうしてですか? 私は……倭穏さんにたくさん、たくさん嫉妬をしました。悔しいと思いました。許せないと思っていました」
瑠既を見上げていた誄は、うつむく。
「俺は誄姫を許せるよ。誄姫が望んだことなら、その相手のことも。それに、誄姫が産んでくれるんなら、その子は俺の子だ」
「この子は! 瑠既様の子です!」
誄の主張に、瑠既は顔がほころぶ。疑っていないと言ったのに、まるで誄は疑ってほしかったように思えて。
「ごめん。辛かったね」
堰を切るように、誄はむせび泣く。その姿は自責しているようにも後悔しているようにも見え、そっとやわらかい髪をなでる。
「どうして……許してくださると、言うのですか?」
「そんなにふしぎ?」
言葉なく誄はコクンと、うなずく。
「ん~、そうだな。俺はそんなにきれいなヤツじゃないから。と、いうことで」
「そんなことないです!」
うつむいていた誄が、バッと顔を上げる。
「瑠既様は、とてもきれいな心をお持ちの方ですっ!」
「誄姫は……よく見すぎていますよ、俺のことを」
「いいえ、そんなことはないですっ!」
強い眼差し──昔のように自然のままにいてほしいと願われているようで、誄がただただ愛おしくなる。
「何で……そんなに切なそうな顔、するの?」
ゆっくりと瑠既は誄の頬に触れ、顎を上げる。
次第に近づく顔に、誄は視線を落とす。
「瑠既様が、あまりにおやさしいから」
瞳を閉じた誄の頬に、また新たな雫が流れていく。
「じゃあ、もっとやさしくしなくっちゃ……ね?」
軽く唇を重ね、すぐに離れ瑠既は笑う。
誄は涙を流しながらも、照れて笑った。
「ありがとうございます。やっと……瑠既様と触れられた気がします」
見えない壁を感じていたのは、誄も同じだったのかと瑠既はハッとする。壁は、分厚いようにも固いようにも感じていたが、薄くて脆いものだった。
その薄く脆い壁を破壊するように、もう一度、両腕で誄を強く抱き締める。
ふたりの間に、もう壁はない。
その後、誄は克主研究所へ行かず、輸送で手続きを済ませた。身重だと伝えれば誰もが納得することで、不自然ではない。
けれど瑠既には、誄が関係を終わらせてきたと感じられた。互いを見つめる視界を遮るものはなく、ようやくふたりの間に安らぎが生まれた。
 




