【21】見えないもの(2)
沙稀とすれ違い、出口から遠ざかる。
誄は、気づいているか。気づいていないのか。後者かもしれないと思えばかすり傷が増えるが、これまでは逆の立場だったのかもしれないと気持ちを持ち直す。
瑠既は学び、少しでも誄に追いつくと決めたのだ。それに、予想している相手が相手。敵わないとわかりきっているが、放棄したら腐るだけだ。
本心を悟られまいといつもの調子を崩さずにいただけだが、沙稀に対しての配慮が足らなかったらしい。
「恭良のどこが『鬼』だって? 何なら俺が、鞭打ってお前に詰め込んでやろうか?」
「あ~怖い怖い」
「間違っても恭良に触れるなよ」
「はいはい」
怒りを惚気として、瑠既は受け流す。同時に、ここまで感情を露わにできるようになった沙稀を、羨ましく感じる。
瑠既は沙稀に背を向けたまま、ゆるゆると手を振り、恭良と宮城研究施設に向かう。
皆が誄の変化に気づいていないようだと胸をなで下ろす。一方で、誄が頬を赤らめた理由を思い返し、痛みを覚える。
──これから会う人物を思い浮かべて、誄姫は……。
火遊びではないのかもしれないと、不安が心を覆う。
「お兄様? お兄様ってば!」
甘えるような声──過去、よく耳にしていた声を重ね、瑠既は意識を取り戻す。
「え? ああ……悪い、悪い」
「もぉ。……もう一度だけよ? わかりにくかったかしら……」
「いや、ぼうっとしてた」
眉を寄せ、口を膨らませる恭良。不満が露骨に表れていて、瑠既は苦笑する。
話しがまったく耳に入らなかった。
幼さの残る声が、倭穏を鮮明に思い出させるほどに。
──そういえば、恭良と同い年だったっけ。
けれど、倭穏の地声は高い方ではなく。どちらかと言えば、大人の女性を思わせる艶のある声だった。いや、作り声で艶ある声を出し、背伸びをしていたのか。
今となっては、もうわからない。
ただ、瑠既に甘え、わがままを言うときの声に、幼さが残っていた。その声が、今日はやけに恭良の声と重なって聞こえる。
恭良と倭穏を重ねることなど、なかったのに──。
「悪い、今日は帰る」
「えっ?」
瑠既は振り向かず、一方的に宮城研究施設を出ていく。長い廊下をひたすら歩き、外へ出る。城内に戻らず、裏門へは行ける。
空を見上げ、ふと、ポケットから香水の瓶を取り出した。
三日月の形をした小瓶。倭穏から貰った物だ。沙稀に土産で香水を貰った日から、意識的に使わなくなった。だが、捨てることも、手離すこともできないままだ。
未練──ではない。だが、忘れてしまったら、倭穏が本当に消えてしまう。その恐怖が、瑠既の中にはある。
倭穏と付き合うようになってからずっと、倭穏を想っていると、思っていた。
けれど、倭穏の言った通りだ。
今になって、倭穏の想いの深さを知る。よく瑠既を見て、よく瑠既のことを知っていて、よく瑠既のことを考えていた。
何が好きで、何が嫌いで、どうすれば満足して、どうすれば気を引けるのかも。
完敗だ。
──俺、愛されることに……慣れていたのかな……。
誰もが一心に心を向けてくれていた。
瑠既が一生懸命にならなくても。
何をしていなくても、夜は当然のようにきて、瑠既はベッドに横たえる。広いベッドだが、真ん中より右側は誄の場所だと、遠慮する。誄が今夜はこないと理解しつつも。
やがて、意識は闇夜と同じように、暗く静寂へと包まれていく。
だが──。
「ぁ、ああっ!」
身もだえする声で瑠既は瞳を開けた。
鼓膜を突き抜けるような声のあとには、体が激しく揺れる衝動。次の瞬間には、絡まる舌の感覚。水を求めるように、口を塞いできたのは倭穏だった。
覆いかぶさり、不規則なリズムが刻まれている。荒く苦しそうな呼吸をもらしながら、頬や首を両手でなでまわし、恥じらいをまるで知らない。一心不乱に瑠既を求め続けてくる。
寝起きは──よくない。機嫌が悪くなる一方だ。
瑠既は右手を上げ、倭穏の手首をつかむ。すると、ようやく倭穏は瞳を開け、唇を離した。
「やだ。起き、ちゃった?」
「お前な、寝込みはやめろって……何回言えば、わかるんだ?」
瑠既の呼吸も乱れる。ただでさえ、心臓が弱い。浅い呼吸を深く戻すのに、時間がかかる。更に言うなら、呼吸が整うのはその後だ。
「だってぇ、瑠既の体見てると……我慢、できない、ん……だもん」
「あのなぁ……」
倭穏の頬を左手で触れる。
「お前、俺が嫌な理由……知ってる、だろ?」
不快だと瑠既は言ったのに、倭穏はきょとんと首を傾げた。
「知ってるわよ? こうして、上に乗られるのも嫌いでしょ? でも、私ならいいって言ったのも瑠既よ」
倭穏はおだやかに笑う。徐々に顔を近づけ、また唇が重なりそうな距離になる。
「ねぇ……」
「ん?」
「『俺の気を引くために、他の男に抱かれて自分を傷付けるような真似は、二度とするな』って……うれしかったよ?」
ジッと瑠既を見ていたかと思えば、上品に倭穏は笑う。
「瑠既は素敵よ。いつだって。それと……何も言わないでいることが女性を傷付けるって知ってるでしょ?」
「倭穏?」
倭穏は瑠既の頭をやさしくなで始める。
「おやすみ。……大丈夫。また襲ったりしないわよ」
瑠既の額から鼻にかけ、倭穏の手のひらがフワッと動く。
瑠既は自然と瞳を閉じていた。
心地よい熱を、体に感じていた。
倭穏の弾力のある肌があたっている感覚が確かにあり、次第に抱き締められている感覚に変わっていく。
再び瑠既が瞳を開けると、小鳥のさえずりが聞こえた。視界には、どこまでも広がっていそうな白いシーツと掛け布団、大きな枕が見える。
ぼんやりとしつつ、ここがどこかと、記憶がはっきりしてくる。
──ああ……。
上半身を起こしながら、鐙鷃城だと認識する。昨日の朝と違うのは、誄がいないこと──ひとりで眠っていたこと──くらいで。
固いものが手の中にあると気づく。
ふと、左手をゆっくり開けば、ちいさな三日月の形をした小瓶。
二十二歳の誕生日に初めてもらった形のものだ。
それから毎年、誕生日にくれる人がいた。
その人は、瑠既の誕生日が『クリスマスにもバレンタインにも近い』と文句を言う人で、そんな言葉を『かわいい』と受け取れた人だった。
今はもう、いないその人が、今伝えたいことがあったのか──そう思うと、瑠既の涙は止まらなかった。




