【12】疑心(2)
ふたりの声に忒畝はきょとんとすると、カップを持ち上げアップルティーを口に含む。口の中に広がるほんのりとした甘さとあたたかみは、心を安らかにする。
湯気でホワッと曇った眼鏡は、忒畝に一時の夢を見させたのか。忒畝はぼんやりと上に視線を向けた。そして、ふと現実を意識したかのように、にっこりと笑う。
「ああ、どうぞ。冷めないうちに」
何ともおっとりとした空気を漂わす。
忒畝の勧めに、恭良は手を伸ばす。続いて凪裟も。──しかし、このおっとりに流されないのは、沙稀だ。
「何かあれば、拝見させていただけないでしょうか。克主研究所の名が刻まれた伝説です。文献は、山ほどあるのでは」
沙稀の厳しい問いかけに、忒畝は一瞬止まったように見えたが、すぐに再びにっこりと笑顔を浮かべる。
「そうだね。折角遠くから来てくれたのだから、いくつか持ってくるね」
忒畝はゆっくりとカップを置く。流れるように立ち上がると、退室した。
「沙稀、催促しすぎたら……失礼だったかも」
恭良は忒畝の機嫌を気にするが、沙稀の固さは崩れない。
「配慮に欠け、申し訳ありません。ですが、恭姫。我々は真実を確かめに来たのでしょう?」
「うう……そうだけど……」
「大丈夫ですよ。忒畝君主はおやさしい方ですから」
納得しない恭良に凪裟が能天気に言う。唸り声をもらす恭良を沙稀は気にするが、声はかけずに見守る。
「ご迷惑だったかしら」
「もし、そうだったとしたら……忒畝君主は大臣が連絡した時点で断っているでしょうね」
恭良の声に、沙稀の反応は早い。
「そうね」
「そうですよ」
しばらくして忒畝はいくつもの資料を抱えてきた。その中には、厚い本や薄い冊子のようなものまで、様々だ。
恭良と凪裟は喜びの声を上げ、資料を広げる。
「わぁ、捷羅様から聞いたお話が載っている」
「恭良様、このイラストは女悪神を描かれたものでしょうか? 確かに、きれいな女神様ですね」
女子たちがはしゃぐ姿を沙稀は眺める。忒畝はアップルティーを飲んでいたが、ぼんやりと沙稀を見ていた。ふと、その視線に沙稀は気づく。
視線が合うと、忒畝はカップを置き、
「沙稀もどうそ」
と、今度は資料を手に取るように促される。これには流されるように、沙稀も手を伸ばす。
「これは記録というより、まるで特別に作成された……資料のようですね」
沙稀の手に取ったそれは、六百年前に女悪神が降りたったところから始まり、称えられた歴史や、争いの痕跡、更には克主研究所の設立の時期まで記されていた。
「見せて」
恭良がのぞき込む。
「地図も載っている。神如……この付近はそう呼ばれていたのね」
「今もだよ。この辺り一帯を神如と楓珠大陸の人たちは呼ぶんだ。たぶん、昔からの名残だね。地域名って言えばいいのかな。だいたい、この研究所を含めて、周囲に広がる森一帯のことを神如と言うんだよ」
忒畝の返答のあと、凪裟も言葉を発する。
「森の奥には教会が……今も、研究所の先に教会もあるんですか?」
忒畝はそうだとうなずく。
「今は敷地内に墓地もあって、色んな人が出入りできるようになっているよ。充忠のお母さんが眠っているって聞いたことがある」
いくつも現実と重なる伝説に、恭良も凪裟も資料から自然と手が離れていく。
だが、沙稀は違っていた。食い入るように資料を見つめている。黙って見ている沙稀に、忒畝が問う。
「どうしたの?」
「いや、何かがおかしいと思いまして……この地図の世界の中心は神如であり、まるで……」
「ひとつの大陸だけ……の世界みたい?」
ズバリと言った忒畝に対し、沙稀はぎこちなくうなずく。
「世界には三大陸ある。それが常識です。それが、ひとつの大陸だけなど……」
「そう、今はみっつの大陸に分かれたけれど、その昔、大陸はすべて繋がっていた。大陸はひとつだけだった。……そう記述では残っている。それが、どうかした?」
「いえ……」
そう言って沙稀の表情は曇り、言葉は途絶える。資料はスルリと手から離れた。それを見届け、
「そういえば」
と、忒畝は声を出す。
「すぐ近くに四戦獣を封印したと言われる塚もあるんだよ。見てみたい?」
「え……」
忒畝の楽しそうな声に、固まったのは女子たち。
「怖い?」
「はい」
怯える女子たちに対し、忒畝はクスクスと笑う。
「じゃあ、この辺りにしておこうか。楽しんでもらえたかな」
「ありがとうございました」
恭良の一言で伝説の検証は終わりを告げる。忒畝は資料をまとめ、手に抱える。
「片付けてくるね。それと、馨民に部屋へ案内するように言うから、ゆっくり待っていて」
「はい」
「ありがとうございました」
恭良の返事のあと、沙稀と凪裟は礼を述べ、忒畝は客間をあとにした。
忒畝は図書室に向かって歩いていた。すると、前方から充忠がやってくる。
「いらっしゃるなんて、珍しい来客だ。何しにいらした?」
「さあ?」
「さあって。……って、お前、これ! 持ち出し禁止じゃねぇか」
充忠の言う通り、資料の側面には、持ち出し禁止を示す黄色のテープが貼られている。
「ああ、これ?」
もっとも、黄色のテープが示す意味は、克主研究所内の者しか知らない。重要書物、資料とわざわざ明確にしておけば、盗難に遭う確率が上がるという判断だ。よって、通常そのような重要書物、資料があると口外しないのがルール。持ち出しは論外だ。
「さあ、問題です。このシールを貼ったのは誰でしょう?」
忒畝は突然クイズを出す。右手を銃のようにし、メトロノームのように手首を左右に揺らす。
「え? えと……あ~、誰だよ」
事の重大さをサラリと流され、更に忒畝のペースに巻き込まれた充忠は焦る。
ふと、忒畝の右手の銃が音を鳴らすような仕草をして止まる。
「父さんだよ」
「悠畝前君主が?」
「父さんはあるときから、四戦獣の研究をし始めた。たぶん、そのときに貼ったんだ。紛失されたら、困るでしょ?」
父を語るときの忒畝は、何とも幸せそうな表情をする。──父が他界して、二年が経っているというのに。
「なるほど……って、それでお前が持ち出していい理由にはならねぇぞ」
「そうだね、気を付けま~す。そうだ。恭良たちを、用意しておいた部屋に案内してほしいって、馨民に伝えておいてくれる?」
忒畝は再び歩き出す。
「はいはい」
疑問形だが、充忠に拒否権はない。いわば、業務命令だ。
浅葱色よりも薄く見えるツンツンと立った前髪。浅葱色よりも薄い──白緑色の髪。彼の瞳の本当の色を知る者は、今は本人しかいない。