【18】呈出
他人事のように感じていた瑠既も、徐々に顔面蒼白になっていく。沙稀は一メートルほど間隔を開けて立ち止まり、固く結んでいた唇を開く。
「恭良に触れるなと……言ったよな?」
変らぬ殺気に、大臣は瑠既の前に出る。今の沙稀には、実力行使しかないと判断したのだろう。
一直線に瑠既を見ていた視界に、割り込んできたのが不快だというように、沙稀が警告をする。
「大臣、そこを退け」
「退きません」
ふたりが睨み合ったのは、一瞬。恭良が追いつく間際、沙稀は足を踏み出す。
「それなら……まとめて切り倒すまでだ」
「やめてっ!」
沙稀が剣を振り上げる刹那、恭良が追い越す。そうして、剣を振り下ろそうとしたとき、恭良は大臣に並び──クルリと振り向いた。
大臣のいない方から、沙稀の剣は瑠既を狙っていた。
それが凶と出た。
照準よりも手前に、恭良がいる。恐怖から身を固くし、けれど、大切な人を守るように身を挺する。
誰にも止められなかった沙稀の剣が、ピタリと停止した。判断というより、本能で沙稀は止めたのだろう。
滅多に呼吸を乱さない沙稀の呼吸が乱れている。切りつけようと勇んでいたときよりも、強く剣を握っている。あふれ出た汗は、冷や汗かもしれない。
恭良のどこかをかすめたかもしれない──恐れるからこそ、動けないのか。そんな沙稀の剣先を、大臣はゆっくりと持ち上げていく。
「沙稀様」
放心状態だったのか、沙稀は大臣の呼びかけにハッと息を吸い直し、視線を向ける。サッと刃先を大臣が手放せば、我に返ったように剣を戻す。
恭良は、痛みがないと気づいたのか。力をゆるめる。
瑠既は刺激を与えまいとしているのか、恭良にも沙稀にも声をかけない。誄が、ようやく事情を呑み込む。
青ざめた沙稀は、恭良が無傷かと目を忙しく動かし確認。──ふと、視線が合う。
恭良に畏怖は残っていないのだろう。何か言おうと唇を開く。
同時、沙稀には後ろめたい気持ちがあるのだろう。途端に沙稀は駆け出す。
「沙稀様!」
叫んだのは、大臣と誄。
どちらの声も、沙稀には届いていたはずだ。だが、沙稀は止まることも、戻ることもない。
恭良を斬ろうとした。
結果的にそうなっただけだが、事実は事実。重くのしかかる。尚且つ、恭良は命を投げ出すかのように、沙稀の狙った人物を庇った。恭良なら、そういう行動をするかもしれないと冷静になってみても、心境がそれをよしと判断しない。
髪に触れた人物を庇う行為に、理解を示せない。
なぜ、触れさせたのか。
なぜ、庇ったのか。
なぜばかりが増えていき、憤る。
船の中で、散々苦しんだ思いが再熱し、沙稀を強烈に苦しめる。会えれば楽になると思っていたのに、より苦しんでいる。
自室で冷静になろうと努めていると、扉の開く音がした。警戒が強くなっている沙稀の聴力が、近づいてくる足音を拾う。誰なのか、見当は付いている。
「出ていって。会いたくない」
「嫌。私は会いたくて、ずっと待っていたんだもの」
入ってきたのは恭良だ。来ると期待をして、わざわざ鍵を締めずにいただろうに、来たら来たで苛立ちが増加していく。子どもじみている──自覚しても、抑えられずに叫ぶ。
「会いたくないって言っているだろ! 出ていけ!」
矛盾する感情で表情が歪む。ひどい言葉を浴びせたかったわけでも、こんな姿を見せたかったわけでもない。でも、どうすることもできない。
パタリと背後で扉が閉まった。
呆れて恭良が出ていったのかもしれないと、沙稀は扉を見る。だが、扉の前には恭良がいた。
恭良はジッと沙稀を見つめ、近づいてくる。
「どうして……」
立ち尽くして呟いた沙稀の視線が、どんどん下がっていく。その間も、恭良は足を踏み出す。
「どうして?」
感情がコントロールできなくなっている。八つ当たりだ。だから言葉を呑み込もうとするのに、それすらもできない。
子どもじみているどころではなく、子どもそのものだ。いいや、母、紗如が亡くなったときでさえ、しっかりしなくてはと涙を止めることができた。
「どうして瑠既を庇った? どうして瑠既に触れさせた? 瑠既が好きなの? 俺がいない間に……瑠既と、何をしていたの?」
自制ができない。
くだらないし、実に無意味だ。恭良の想いを疑っているわけではないのだから。
過度な承認欲求だ。単に瑠既への嫉妬だ。失ったクロッカスの色彩、身長差、声も瑠既と重ねて比べて、『本当は今と違かったのではないか』という残骸を消し去ってほしいだけだ。
残骸があるからこそ、瑠既の方がいいのかと、その一心に支配されている。
「沙稀……何を想像しているの?」
『何を』、瑠既は恭良の髪型を変えただけだが、沙稀が想像した具体例はかけ離れたものだったのだろう。うつむいていた顔を咄嗟に上げ、恭良を見た顔色は、まともな想像をしていたとは言えないものになっている。
「私は、お兄様を『お兄様』としか見ていないのに。どうしたの? どうして、そんなに悲しむの?」
恭良は沙稀の左頬に触れ、下からのぞき込む。
「いつまでたっても私は、お兄様と私のふたり兄妹のままなの。私には、どうしてもお兄様と沙稀が双子だとは思えない。……ひどい? 沙稀からお兄様を、私が奪ってしまって……ひどい?」
「違う」
不安が消え去り、沙稀は左手を恭良の手に重ねる。沙稀には双子の兄を恭良に奪われたとは、微塵にも感じない。むしろ、瑠既と双子だと事実を知らせてからも、沙稀を個として認識していると安堵したくらいだ。
無駄な残骸が消え去り、愛おしい気持ちだけが残る。
ただ、沙稀の混乱が恭良に正確に伝わっていたかは、別問題で。恭良は恭良の持論を続ける。
「私の中には確かにいるの。記憶もないのに、確かにかわいがってくれた『お兄様』が……私の中には、いるの」
その『兄』の存在を、沙稀は嫌というほど知っている。
「恭良」
だが、誰とは言えず、沙稀は恭良を抱き寄せる。
「私は沙稀が好きよ。今のままの沙稀が好き。髪の色も、瞳の色も何もかも、私の知っている沙稀は、今のままの人よ?」
それでいい──それでよかったと、沙稀は再び心に決める。恭良が見て、触れているこの姿を好きになろうと。
恭良がそばにいてくれれば、何であろうと容易なことだ。何が真実であろうと、真実でなかろうと構わない。
ただ、ひとつだけ──決して真実ではあってほしくないことが、ひとつ過る。
それは、たとえ真実であるなら沙稀も知りたくないというのが本音であり、誰にも知られたくないことであり、最も、恭良に知られたくないことで。
恭良を好奇の目にさらしたくないと強く願う。罪に苛まれる意識の中に、恭良を道連れにはしたくないと、切に願う。
都合がよすぎる。だから、犠牲を払うのなら、自らを差し出すと誓う。
「恭良、俺は恭良がいなくては……生きていけそうにない」
愛おしくて涙があふれる。言葉にできず、行動に移す。愛を囁かなくとも、愛を伝えるための行いを。
数分後、ふたりの唇が離れると、恭良は沙稀の両頬に両手を添える。
「私は何があっても、沙稀を離したりなんか、しないわ」




