【14】夢幻
彼女が克主研究所にやってきたのは突然だった。
昼食をとり、職場に戻ろうとして忒畝は遭遇していた。淡い色のドレス姿が残像のようだ。光で溶けていきそうに見えるが、長いクロッカスの髪がサラリと揺れ──忒畝は実物を見ていると自覚した。
忒畝に気づき、深々と頭を下げてから微笑む。クロッカスの美しい髪を耳にかけて微笑む輝かしいまでの笑顔は、無意識に会いたいと願って眺めた幻影にそっくりだった。
思いもしなかった訪問者に、忒畝は動揺していると感じつつも、職場へと案内する。まずは彼女を座らせ、次にアップルティーを入れる。
そうして、テーブルにカップを置いたとき、
「あ、あの……」
フワリと微かに甘い香りがした。
「鐙鷃城の、誄と申します」
改まって頭を下げた誄に、忒畝は何と返すかといくつかの選択肢が瞬時に浮かぶ。
すでに名乗っていると示せば、誄が傷付くかもしれない。逆に、会ったことを誄が忘れていると思えば、胸がチクリと痛む。
誄が顔を上げ、忒畝は口角を上げた。
「忒畝と申します」
知っているだろう。訪ねてきたのだから。まして、誄は案内に付いてきたのだから。それでも、忒畝は後者を選んだ。
そうして、対面する椅子へと歩いている途中で落胆する。
初対面だと認識されているのだろうと。忘れられているのだろうと。浮かぶのは、あいさつの途中で沙稀へと走っていった初対面のときの後ろ姿。
──いや、あのときは婚約者が帰ってきたのだから……。
頭に残っていなくて当然だと思った途端、今度はズキリと胸が痛む。
「ぞ、存じております」
忒畝が椅子を引くころ、誄のちいさな声が聞こえ、視線が上がる。
「その、以前は……きちんとごあいさつができずに、申し訳ありませんでした」
覚えていた──それだけのことなのに、忒畝はフワフワとした感覚になった。驚きから一変、頬が急にゆるみ出す。
「いいえ、こちらこそ失礼しました」
アップルティーが湯気を上げ、微かな香りを広げる。一口飲み、誄にも勧めると、
「忒畝様」
と初めて呼ばれてドキリとする。『忒畝』だと認識されていると耳にしただけで、気持ちが高まるほどにうれしい。
けれど、続く言葉は忒畝を現状へと引き戻す。
「実は、ご相談があって参りました。鐙鷃城に宮城研究施設を設けたいのです」
宮城研究施設を設けている城は、数える程度しかない。高位の城しか維持できない施設のひとつだからだ。結論を言えば、鐙鷃城はそこまでの規模ではない。
だが、瑠既を婿養子に迎えている。多少なりとも鴻嫗城から支援があるだろうが、そうでないにしても一定の地位を誇示したいのだろう──と、忒畝は推測した。
だからと言って、姫自身がわざわざ克主研究所に来るのは異例だ。
──ああ、そこまでして……。
前例のないことをしてしまうほどのことだと、瑠既を婿に迎えた側の意図を汲む。誄は瑠既と結婚していると、まざまざと再認識し打ちのめされる。
ふたりが微笑み合う幸せそうな姿を見て、誰に会いたかったかと自覚して、そんな想いのままで挙式を見届けたばかりだというのに。
会いたいと願い、同時に、二度と会いたくないと願った人が、誄が目の前にいて。きっと忘れられると思っていたのに、どうかしていると思っていたのに、抱く感情を認めざるを得ない。誄の一言一言に、一喜一憂しているのだから。
誄の相談には、乗ってあげたい。ただ、反面、それが別の誰かのためならば拒否したいと、妬ましい気持ちも沸き上がる。
ふと、鼻孔を抜けていくのは、湯気を上げるアップルティーの香り。やさしい思い出と絡み付く香りは、忒畝の気持ちをリセットさせる。
──いや、姫自身が来たことには、きっと別の理由がある。
例えば、体よく断られないようにするため。もしくは『君主自身』が対応をするか、こちらの誠意を測るため。
──どちらかと言えば……。
前者だろうと忒畝は思う。宮城研究施設を設けるには、世界の研究所として君臨している克主研究所の、君主の決裁印がどうしても必要だからだ。
──僕の決裁印が必要だと知って、あいさつが途中だったと思い出し、青ざめたのだろうか……。
そう思えば、忒畝には落胆しかない。わざわざ忒畝に会いに来たわけではなく、立場上のことだと浮き彫りになっていく一方だ。
けれど、思惑に気づいたからには君主自ら対応をしないと失礼に当たると、忒畝は考えをまとめた。同時に、あることに気づく。
誄は、恭良が姉と慕っていた。鴻嫗城で宮城研究施設を治める恭良が慕う人となれば、それなりの知識があるのかもしれないと。それならば、宮城研究施設を設ける憧れが、誄にはあるのかもしれないと。
忒畝は誄の反応を確認しながら失礼のないように話しをし、創設へ向けて進めていくことにした。
午後の時間を裂き、宮城研究施設の規模や方向性、今後の進行予定や必要書類などを話していく。これらは忒畝の予定外だが、予定外のことに時間を要するのは度々あることだ。
『指導』を心がけ、話しを進めていく忒畝。熱心に聞き入る誄。
ふと、微かな甘い香りが漂い、忒畝の心を惑わす。以前にもこんなことがあったと、入り乱れる感情。忒畝は俯瞰しようと努める。強く高鳴る感情は、コントロールできなかったときの──黎馨といたときの感情と似ている。
──こんなにも強く惹かれてしまうのは……『私』だから、なのだろうか。
誄を見つめ、気持ちが激しく揺れ動く。いけないと、視線を逸らす。過去の記憶は、持っていないものだ。黎馨ではないし、『私』ではない。誄だと、過去生のことは一切知らないのだと考えを切り替えようとする。
すぐに用意できる書類の準備に取りかかる。『忒畝』なのだから。誄が求めてきたのは、『克主研究所の君主』なのだからと。言い聞かすように淡々と揃えていると、忒畝は視線を感じ、顔を向けた。
瞳が囚われた。
動けなくなった忒畝に、誄はゆっくりと近づく。気持ちを見透かされているように忒畝が感じていると、距離はみるみるうちに縮まっていき──ふたりの唇が重なった。
忒畝の手から力が抜け、いくつものちいさな音が重なっていく。
紙が落ちていく音。机と擦れる音。紙同士が重なる音。空気が微かに動いて、ちいさな音は始まりを告げるように鳴り響く。
紙たちが止まると、静寂が空間を包んだ。分類ごとにきれいに重ねられていた書類は、無造作に広がった数十枚の紙に覆われていた。




