【13】再認
同じく克主研究所内。忒畝はひとつの部屋の前に来ていた。気持ちは進まないが、おもむろに右手を上げる。
コンコンコン
返答はない。忒畝は再びノックをする。
コンコンコン
変わらず、無音のままだ。ため息が出る。だが、忒畝はわずかに扉を開け、声をかけた。
「聖水、いないの?」
返答が聞こえるようにと多少の間を開けるが、何も聞こえてこない。忒畝はこのまま扉を閉めて、来なかったことにしようかと──そんな考えが頭を一瞬過ったが、迷いを消すようにドアを開ける。
すると、ドアノブをつかんでいる右腕を握られた。ドキリとしてつかんだ主を見ると、聖水だった。
「いるなら返事してよ」
忒畝は苦笑いだ。相変わらず返事はないが、忒畝はそれを責めない。聖水はきょとんとしている。そう、そもそも返事をする習慣が聖水にはないのだ。
左手で忒畝が扉を閉めると、右腕に聖水がスルスルと絡んできた。忒畝はため息をこらえ、冷静にソファへ座るようにと促す。
聖水は大人しく従う。──そう、言葉は理解できる。行動できる。ただ、習慣にない返事をするのが聖水には難しいだけだ。
得意なことと不得意なことを判断し、接していかなくては聖水を再教育できないと忒畝は認識して接している。
「少しは部屋から出てる?」
忒畝は聖水に与えた宿題を見つけ、目を通しながら言う。──が、返答はない。頭でわかっていることを、忒畝も一回一回こうして認識する。
宿題を持ったまま、聖水の前に忒畝は座る。
「君がみんなを知らないように、みんなも君を知らないんだから。何も怖がらなくて平気だよ? それに克主研究所の配置も、みんなの名前も少しずつ覚えていけばいい。ただ、それには部屋から出ていかないと。ね?」
忒畝の口調は子どもに言い聞かせているようなもの。一方の聖水は話を聞いていないのか、ぼんやりしたままだ。
聖水は立ち上がり、忒畝のとなりに座り直す。更には、片足を忒畝の膝に乗せ、顔を近づける。
「忒畝」
「聖水、近い」
忒畝は顔を背ける。
「だって」
聖水はしょんぼりと下を向き、今にも泣きそうになる。
忒畝は少しでも身を離そうと、聖水と反対側を向く。しかし、ソファは二人掛け。隙間は余分にない。忒畝は別の策を選ぶことにする。
「はいはい、わかったから」
向き直り、聖水を妹のように抱き寄せて頭をなでる。
忒畝の仕草を勘違いしたのか、聖水は歓喜し、ひっつく。
聖水をなでながら、忒畝はふうと息をもらす。正直、聖水が苦手だ。何度、聖水に苦手意識を向けないようにと試みたところで、無理なのは承知の上。忒畝が前世の記憶を甦らせた夜のことは、どうやっても割り切れないでいる。
けれど、割り切っているように振舞うしかないわけだ。親族だと認めたのだから。
「あのさ……聖水の気持ちはもう充分知っているよ。でもね、本当に僕を想っているというのなら、僕をあまり刺激しないで」
「どうして?」
ひっついていた聖水がグンと両腕を伸ばす。そうして忒畝を食い入るように見るが、聖水の瞳はまるで捨て猫のよう。見られている忒畝には、もどかしい。
「あのね、僕にとって男の欲望は体内の毒素を増殖させて苦痛を伴う。自殺行為と同じなの」
「忒畝早く死んじゃうの?」
「そうだね。寿命を縮めることになるね」
「そっか。それは嫌だなぁ……どうすればいい?」
忒畝は力なく笑う。聖水に通じるように言ったつもりなのに、肝心な部分がまったく伝わっていないようで。
「まず、今みたいに体を密着させないでくれること、かな」
「悲しい」
「離れてくれる?」
柳葉色の瞳をきちんと見て忒畝は聞いたが、当の本人は呆然としている。
「ねぇ、聖水」
聞いているかと忒畝が言おうとしたときだ。聖水がグラリと揺れた。咄嗟に忒畝は聖水を支える。
意識を失ったように見えたが──聖水は眠っていた。人のことなどお構いなしに、気持ちよさそうに眠る聖水を見て、忒畝は三度ため息をつく。
聖水は、心も体もまだまだ不安定なのだろう。疲れがたまりやすく、意識が飛ぶように眠ってしまうのかもしれない。子どもそのものだ。
忒畝は聖水を抱え、ベッドに寝かせる。無防備に眠る姿を見て、思い出したくないことを鮮明に思い出しまう。
『最後に、体が徐々に壊死していく感じと似ていたんだろう?』
竜称が言った言葉に、前世の死の淵に立ったときの苦しみ、痛みが蘇る。愛おしく想った人を思い出す。
憧れる血の色を思わせる、蘇芳色の髪の毛を持つ人。
じんわりと体内に広がっていく痛み。忒畝は動悸を覚え、何とかこらえようと胸に手を当ててしゃがみ込む。
だが、痛みは引かず、徐々に強くなっていく。込み上げてくる吐き気を感じ、忒畝は洗面台へと急ぐ。
「うっ……ぁっ、はっ」
白い洗面台に濃い青色の液体が広がる。
忒畝はその場に崩れるように座り、悔いるように呟く。
「僕は……望まないのに……」
体が熱くなるのを感じつつ、体内を貫く激痛に耐える。思い出した屈辱も、あふれそうになる涙もこらえながら。
ふと、過去生で想っていた人と重ねた人が思い浮かぶ。過去生が最期に思い浮かべた人と重なるのは、想いの深さも酷似していて。
寂しさでいっぱいになる。愛おしさでいっぱいになる。狂おしくなる。もどかしい。愚かしい。そうしてまた、無性に寂しくなる。
『生まれ変わっても……いつまでも、貴男のそばにおります』
過去生の最期、苦しみに耐え妻を求めたときに降り注いだ癒しの声。似た苦しみに思い起こした言葉は、心をも苦しめる。
もどかしい感情に、屈してしまいそうになる。
無意識に求めた人だと自覚したのは、数週間前。
自覚してから目にしたのは、先日。
その人は別の男のためにウエディングドレスを着て、輝かしく微笑んでいた。
体が引き裂かれるほどに切なく、黎馨と交わした約束は忘れようと決意した。過去生でのことは、過去生で終わっている。忒畝はそう自らに言い聞かせ、美しく残酷な姿を脳裏に焼き付けてきたばかりだ。
──もう、会うこともない。そもそも、彼女と接点がない。考えれば会話らしい会話を交わしたこともない。
『どうか、『私』を見つけてください。そして、見つけたら……決して『私』を離さないでください』
──本当に、どうかしている。
美しい姫君だと噂にしても、気にしていなかった。話題のひとつだっただけで、初めて会ったとき残った何かがこんなに大きなものに変わるとは思ってもみなかった。
二回目に会ったときには泣いていて、泣き顔に珍しく動揺しただけだと思っていた。『私』を無意識に感じて、見つけていたとは思いもしなかった。
忒畝は深く息を吐き、大きく吸い込む。
──会うことがあるとしても、遠い先の話だろう。時間が経てば、この気持ちも……きっと、忘れられる。
会ったのは、二回だけ。それから数ヶ月経って、忒畝が一方的に見ただけにすぎない。そう、だからこそ忒畝はどうかしていると自身を否定する。決して『私』を離したくないと、心が引きちぎられた感覚を。
ゆっくりと忒畝は体を起こす。全身の痛みが和らいだのか、静かに聖水の部屋を出た。




