【12】ごあいさつ
翌朝、充忠はいつになくきちんと身なりを整えていた。大事な客人を出迎えたり、特別な式典があったりするわけではないが、もしかしたらそれら以上の出来事かもしれない。
廊下を歩きながら充忠はため息をつく。
「あ~、気が重い」
並んで歩く馨民が、ふしぎそうに見上げる。
「何がそんなに気が重いの?」
「あの恐ろしい釈来さんに話しをするのが、だよ。いくらお前から話を聞いているんだろうなと思ったところで、何を言われるか……」
「充忠って、本当に失礼よねぇ」
馨民の目が細くなる。不機嫌そうな顔が釈来と重なったのかは不明だが、充忠は『うう……』と唸るような声をもらした。そうして、弁明が始まる。
「いや、釈来さんがいい人だっていうのは認める。ただ、お前のこととなると、別なんだよ。この世の全員を抹殺するような目で見てくるんだから。その恐ろしさったら……ああ、想像するだけで寒気がする」
「何よそれ。……私のお母さんが『誰』かなんて、昔っから知っているくせに」
「あ~……まぁ、そうだけど」
充忠は苦笑いを浮かべ、ばつが悪そうに言う。
「俺の母親像とは真逆すぎんの、釈来さんは。あんなに怖い母親、俺は他に知らないぞ」
「逆に、私は充忠を引き取って育ててくれた人がどんなにやさしい人か知らないわね」
充忠は自ら家族の話しをしない。身の上が他と違うからというのもあるだろうが、母の話題になっても話さない。『やさしい養母』なら、自慢の母だろうに。
ふと、一瞬だけ充忠は悲しそうな表情をした。馨民はしまったと思ったのか、咄嗟に口を開く。
「充忠のお養母さんは……もう、五年は経つ?」
「ああ。俺が知ってから、そんくらいは経つな」
言葉は切れて、やはり『どんな母だったか』と話し始めない。
古傷に触れてしまったのか、『家族の話』に触れない方がよかったのかと馨民の胸がザワザワしたころ、
「今度、一緒に墓参りに行くか」
と、充忠が言う。
馨民は静かにうなずく。
こうして、馨民は少ししんみりと、充忠は単に緊張して廊下を歩いていった。黙々と歩いたふたりだが、釈来の職場の手前で充忠が立ち止まる。
「馨民、ちょっと俺に力よこせ」
ぶっきらぼうに言い、返事を待たずに馨民の右手をパッと取り、握る。ぶっきらぼうな言動とは対照的に、手を握る様子は、大事なものを両手で握って祈りを捧げているようで──ギュウッと握られる手に、馨民は戸惑う。
いつも素っ気なく見える充忠が、別人のように見えて。それに、こんな風に触れてきたことがない。
「よし!」
強く握った手をパッと放し、充忠は『受付』へと向かう。
「ああ……充忠くん?」
不機嫌そうな声。充忠を上目使いで見た男は、一回りほど年が離れているだろうか。くすんだ水色の前髪が、左目だけを矯正している目元を隠すように垂れている。右側の前髪は黒のスリーピンで留め、髪の毛と同色の瞳がよく見える。──よく見える分、睨みがキツイ。
「おはようございます、酉惟さん。釈来さんにお話しがあって来ました。通してもらえますか?」
厳しい目つきを向けられたにも関わらず、充忠はさも慣れているかのように話す。一方の酉惟は、馨民をチラリと見、すぐに椅子の背もたれを反るように動かす。
「釈来さん、充忠くんがお見えですが。お会いになりますか?」
上司の釈来に聞く口調も変らない。つまり、この冷たく聞こえる口調が酉惟の常なのだ。
「通して」
釈来から返ってきた声は、実にあっけらかんとしている。釈来も釈来で、通常通りというわけだ。
「わかりました」
酉惟は釈来に返事をすると、充忠に『どうぞ』と無愛想に言う。
「どうも」
スタスタと入っていく充忠と、酉惟に笑顔で手を振ってから奥へと進む馨民。顔を上げた酉惟は、ほんの一瞬だけ口角を上げた。
「仕事中にすみません。っていうか、よかったんですか。仕事中で」
「あら、改まった場の方が嫌かと思って。それに、うちの職場じゃ『鬼の門番』とも『猛犬』とも比喩されている酉惟さんが、充忠くんにもやさしいもの」
通すようにと言った割りに、釈来は業務を続けている。
「それ、ひどい例えですね。酉惟さんは誤解されやすいだけだと思っていますけど?」
「あら。周囲から恐れられている存在に、馨民以外の理解者がいるとは心強いわね。そうね、その誤解のお陰で職場がこれだけまとまっているのだから、酉惟さんには感謝しているわ」
ひとり娘が嫁に行くとは思えないほど、釈来は実に淡白だ。過剰な心配だったと、充忠の緊張が解けていく。
ふと、釈来は手を止めて立ち上がる。反射的に充忠は軽く頭を下げた。
「おめでとうございます」
聞こえたのは酉惟の声。充忠が頭を上げたころには、釈来は酉惟に顔を向けていた。
「ありがと。でもねぇ、充忠くんに『お義母さん』なんて呼ばれたら、ちょっと怖いわよね」
「安心してください。俺も今更、釈来さんをそう呼ぼうと努力できなさそうですから」
気のゆるみから出た本音は、グッと釈来の首を動かし、目を見開かせる。充忠は至って真顔のままだが、その後ろでは馨民が笑いをこらえている。
妙な間があいたあと、再び釈来の顔は酉惟に動いた。
「ちょっと、酉惟さん! 聞いた? 失礼すぎよね」
「そうですね」
酉惟の態度は馨民と同じだ。
充忠は釈来を怒らせたと感じたのか、
「酉惟さん! でも、そう思いません?」
と酉惟に同意を求める。すると、酉惟は楽観的なことを言った。
「お互い似たことを思っているんだから、無理に呼び方変えなくてもいいんじゃない? ですよね、釈来さん」
「まぁ……そうね。あ~、よかったって思っておくわ」
ジッと向けられた釈来の視線に慄いたのか、充忠の背筋が伸びる。このやりとりでは、釈来の方が『猛犬』かもしれない。
「ありがとうございます。こんな俺ですが、よろしくお願いします」
「引き続き、よろしくね」
釈来はにこりと手を差し出す。その手を、充忠が握らないわけはない。──こうして、ふたりは握手を交わす。
一方、そんなふたりの知らぬ間に、酉惟は馨民に笑顔を見せていた。
「馨民ちゃん、おめでとう」
「ありがとう」
無邪気な馨民の声に、充忠が振り向く。そうして、声にならぬ声を上げ、うめくように言う。
「酉、酉惟さんが微笑んで?」
まさに、絶句。
固まる充忠を、呆れるように釈来は横目で見る。
「つくづく失礼なのねぇ……。酉惟さんは笑いもするし、昔から馨民をかわいがってもくれるわ。ず~っと、ああいう感じよ?」
人見知りの馨民が、人嫌いのような酉惟が、にこにこと談笑している。その光景は、充忠には信じ難いものだった。
いや、上司である釈来とその娘に気遣うのは、当たり前なのかもしれない。だが、『馨民が懐く』ほどのかわいがりを、酉惟がするとは、にわかには信じられないもの。──ふと、充忠はこれまでの違和感に気づいたのか苦笑いする。
充忠は馨民と結婚すると、この場で口にしていない。けれど、釈来が『お義母さん』なんて呼ばれたらと言う前に、酉惟は祝いの言葉を述べている。つまり、充忠を通すかと聞く前から、馨民と来ると釈来から聞いていたのだろう。理由も含めて。
それなのに、『通すか』とわざわざ釈来に聞いたのだ。馨民は、聞かずとも通すとしても。
釈来と酉惟は上司と部下。それ以外で言い換えるなら、幼なじみのようなもの。
それ以上にはならないし、それ以下にもならない。けれど、酉惟は釈来を一途に想っているのだろう。
それこそ、今の酉惟の職位が前君主からの申し送り事項であると知っているのは、忒畝だけだが。
 




