【11】懐かしい声
夕食を終えた充忠は、心に苦しみを抱えていた。今年の誕生会は遠慮すると、忒畝がポツリと言ったせいだ。
自室に戻り、眠りにつこうとしても頭から離れず。むしろ、モヤモヤが増してくる。あまりにもサラリとしていて、素っ気なかったあの態度。
今更だ。『家族』の認識に、差がありすぎると実感するのは。
忒畝は『家族』という括りに一線を引く。忒畝らしいと言えば、実に忒畝らしく、本当に今更だとしか言えない。そうして、痛感する。理解しようとしてみても、どうしたって充忠には『家族』がわからないのだと。
だから、遠慮すると申し出た忒畝を、引きとめることができなかった。
眠れずに思い出すのは、馨民に告白した日のこと。ポロリと言ってしまったと。あれは、見知らぬ女性、黎馨が克主研究所に来たときだ。
「何あの態度」
「さぁ。……まぁ、俺としては祝福できるけど」
充忠は本心を言ったが、となりで頬を膨らませる馨民の熱は下がらないと気づいた。
「そんな様子じゃ、『忒畝が誰かと付き合う』ってなったら、まずはお前の面接に合格しないと駄目そうだな」
笑いながら冗談を言って馨民をからかうと、怒りの矛先が充忠に向く。そこまではよかったが、馨民の頬が更に膨らみ──それを見て、充忠はかわいいと思った。
こんなことは何度もこれまであったのに、どうしてか口が開いた。
「俺、お前のこと好きだわ」
なぜか思ったままに、ポロリと口から出てしまって。
目の前の馨民があまりに驚いた顔をしたものだから、充忠はどうしたものかと考え、自身の発言に気づき驚いた。
馨民は出会ったときから、忒畝に好意があると一目瞭然だった。けれど、忒畝ときたらあまりに鈍感そうで、充忠は単刀直入に『付き合っているのか』と聞いた。忒畝はポカンとしていたが、馨民は真っ赤になって否定していたものだ。
だから、馨民のことを時間の経過とともにいいなと感じても、言うつもりは微塵もなかった。そもそも、馨民の所作を追えば追うほど、馨民の中には忒畝しかいない。
玉砕するのが目に見えていて、想いを告げたいと思う方が珍しいだろう。それに、玉砕すれば馨民との関係は変わる。忒畝との関係も、変わるかもしれない。充忠が言わないでおけば、いずれ忒畝が馨民と付き合うかもしれない。
ふたりとの関係が変わるより、ふたりの関係が変わる方が、充忠にはいいと思えていた。
それに、馨民が憧れているものを知っている。それを、充忠がまったく知らないことだということも、知っている。
まったく知らないことなら知りたいと、何とか知ろうとするほど、充忠自身が馨民の憧れと遠い位置に存在すると知っていった。
共通することと言えば、どちらも父親を知らないことだが、克主研究所で生まれ育った馨民には、父親のように慕う人がいる。
生まれ育った環境の差は、どれだけ遠いか。克主研究所の出身でもなければ、帰れる場所もない。学費や生活費を出世払いにしてもらい、悪縁を切るために大金を何度か払ってきた充忠には、先立つものもない。
もし、ふたりとの関係がこじれれば、職を失うことになるかもしれない。職まで手放すとなれば、生きていける保証までなくなる。感情に比重を置くより、現状維持を望んできた。
けれど、出てしまった言葉は馨民の耳に、脳に、しっかりと届いている。
「あ~……、いや、返事は今じゃなくていい」
充忠は痒くもない頭を右手で掻く。左手は馨民を拒否するように上げ、一歩、二歩と後退していく。
言ってしまえば、この気楽な関係は終わるとずっと思ってきた。要は、返事を聞きたくないと逃げたのだ。できれば、一生聞きたくないと。
気づけば充忠は、行く当てもなく研究所内を走っていた。
馨民が充忠の思考を汲んだのか否かは不明だが、とにかく、しばらく返事を聞かずに済んでいた。充忠に対し、馨民は特に変わらず。いや、相変わらずというべきか。
馨民はやはり忒畝のことしか頭にないようで、鷹から噂を聞き、充忠の仕事部屋に飛び込んできたほどだった。
ふてくされている馨民に、
「何? お前は、忒畝が幸せになるって想像しても、本当に祝う気持ちがわかねぇの?」
と言えば、渋々首を横に振って。そうして今度は自棄になったのか、悠穂にも噂を話しに行き。バタバタと騒がしく戻ってきたと思えば、
「忒畝が話してくれたらお祝いしよう!」
と、提案するほど、今度は無理をしてでも前向きだった。だが──忒畝の噂が所詮、噂話になって。
スーッと空気が抜けてしぼんでいく風船かのように、馨民から気力が抜けていった。見かねた充忠は、
「妙な噂話を本気にして悪かった」
と謝る。
「いいの」
馨民は言葉少なに立ち去っていく。トボトボと歩く馨民の後ろ姿に、充忠はついうっかり口にしたことを思い出し、単に友人としてそばにいられなくなったと感じて更に後悔した。
それから数週間が経ち、馨民は突然、了承の返事をしてきた。驚き、信じられずに充忠が何度も聞き返したものだから、
「うるさいな! じゃ、もう、なしってことでいいんじゃないかしら!」
と、馨民を怒らせたほど。
ただ、馨民のこの答えは、あとになって腑に落ちた。忒畝の話を聞いて、ああ、忒畝が馨民の背中を押したのだと伝わってきた。
付き合って数ヶ月経っても、何も変わっていない。変わったのは、充忠の心境くらいだ。
彼女だと思えば変に意識してしまって、妙な緊張をする。悟られないように、変わらないように振舞う。たまに手を伸ばしそうになっても、馨民の気持ちは見て取れて、ブレーキがかかる。
充忠には、結婚願望がない。けれど、忒畝から託されたような意識があり、尚且つ、馨民は結婚願望が強いと知っていた。
付き合っている実感がなく、好きかとも聞けない充忠は馨民に問いかけた。
「俺と結婚する気、ある?」
と。
馨民が驚いて固まるものだから、
「結婚するか? って聞いてんの」
と言い直せば、馨民は信じられなさそうにうなずいて、いつになくはしゃぎだした。
そんな馨民を見て、『人生の大事なことなんだから、もっと考えて返事しろよ』と思う反面、即答してくれた喜びは大きかった。
後悔した分、その反動でいいように事態が好転した気になっていた。都合のいいように捉えていただけかもしれないと、今になって充忠は舞い上がっていたと痛感する。
忒畝があそこまで一線を引いてくるとは思っていなかった。軽率だったのは、馨民ではなかったと頭を抱えている。
──そういえば。
似たような後悔は、ずい分前にも──ウトウトしながらそう思っていると、遠くから懐かしい声が聞こえてくる。
「充忠」
誰の声かと忘れもしない。もう聞くことのできない声。唯一、『家族』だと充忠が口にする人。
「もう……考えは変わらないの?」
「変わらない」
充忠は返事をする。古びたちいさいテーブルの上に置いた本を、大きな鞄に詰めながら。
「長いお休みには、普通の学生みたいに……帰ってこられるのよね?」
涙をこらえているかのような震える声に、視線を向けない。それどころか、言葉すら返さない。帰ってくる気はないとは、さすがに言えなかった。
『迎えにくるよ』
その一言が、どうしても口に出せない。『立派になるから』、『待っていて』、いくつも言いたい思いはあるのに、言ってしまえば『離れたくない』とも言ってしまいそうで。
泣き声がこぼれて聞こえてくる。充忠もつられて泣きそうになる。グッと耐えて、黙々と荷物を鞄に入れていく。
ギイっと、風呂場の扉が開く音がして、またギイと閉まる音がした。こぼれて聞こえていた、泣き声が聞こえなくなった。
ポツンと、鞄に何かが落ちた。ポツンポツンと速く落ちても、充忠はそのちいさな手を止めない。声を上げずに、ただ黙々と胸に宿した炎だけを信じた。




