【9】吉報
時はまだ、鴻嫗城で新たな歴史を刻み始めたころのこと。忒畝は神秘的な挙式の出席を終え、日常がようやく戻ると思っていた。
けれど、実際は──ひとつの波がふたつ、みっつと続けば荒波になるように、変化は連鎖的にしていくのかもしれないと思わざるを得なくなっている。
珍しくなかなか落ち着けずにいる。いや、めでたいことだからと、できれば一緒に変化を楽しみたいと願う。
そうして、忒畝は何気ない物を手に取り、ひとつの部屋を訪ねる。
コンコンコン
「は~い、誰?」
声とともにドアが開く。夕暮れのような、青紫とも灰色ともいえる色の長い髪が揺れ、顔をのぞかせた。馨民だ。
忒畝は笑う。
「誰? って聞くんなら、ちゃんと返答を待って開けなよ……って、いつも言っているでしょ?」
「い~じゃない。こんなにきちんとノックするのは、忒畝くらいよ? 充忠なんて、ノックしないし。失礼すぎるわよね」
口調はいささか厳しいが、怒ってはいない。彼女らしいと言えば、彼女らしい。
「それで、なあに?」
「ああ、これ」
仕事の資料を忒畝は差し出す。
「わざわざ……」
こんないつでもいい物を──と言おうとして、馨民は気づいたのだろう。忒畝はこれだけのことでわざわざ来ないと。
資料を見つめていた馨民が、ふと忒畝を見る。忒畝は満面の笑顔だ。
「吉報……待ってるんだけど」
馨民の顔面がみるみる赤くなっていく。言葉が吹き飛んでしまったのか、声の変わりに両手を小刻みに上下に動かす。
忒畝はからかうように笑う。
一方の馨民は、声にならない声を何度か上げ、顔を真っ赤にして瞳を潤ませていく。
それから、数分。ようやく馨民は動作を止めて声が出る。
「聞いた……んでしょう? 本当は」
「何を?」
忒畝は相変わらずの笑顔。
再び馨民は両手をワタワタと動かし、声にならぬ声を出す。必死に言おうと努めている姿は忒畝に伝わったのか、
「うん。聞いた」
と、クスクスと笑いながら答える。
「おめでとう! うれしくて」
ただ、悪意はなかったようで。忒畝はにっこりと無邪気に笑い、馨民の頭を妹のようになでる。
「あ……りがとう」
よほど恥ずかしいのか、顔の赤みはとれない。大人しくなでられている様は、まるで猫だ。
「あの、ね……忒畝がバタバタしてたから、言えなかったけど……誕生日、おめでとう」
忒畝は恭良と沙稀の挙式のあと、確かに親友ふたりと帰宅をしていた。だが、すぐにその足で羅暁城に顔を出していた。
羅暁城の挙式は公式発表があったものの、出席はできなかったためだ。だが、別途あいさつに出向いたら、どうしたことか。
貊羅に何泊か勧められ、無下にもできず。誕生日まで祝ってもらい。ようやく昨夜、帰宅したばかりだった。
「で、落ち着いたらまた今年も、充忠の誕生日と合わせてお祝いしようって話していたんだけど……」
忒畝と充忠の誕生日は近い。忒畝が十四日、充忠が二十日だ。一週間も離れていない。忙しい日が続いたときは、いつしか合同で祝うのが通例になっていた。
「ありがとう。でも、僕は遠慮しておく」
「えっ?」
「これから結婚するふたりでしょ? 誕生日のお祝いくらいは……ふたりでしてよ」
忒畝は悪戯に笑う。その笑みに、馨民の顔が三度真っ赤になっていく。
馨民は『そんなこと言わないで』と声にならぬ声で訴え、それは忒畝に伝わったが、忒畝は笑ってやり過ごした。
「あ~あ、悠穂もお嫁に行くんだって言うし……ああ、聞いた?」
「そうなの?」
馨民は驚き、少しの冷静さを取り戻す。
「え~、相手は誰?」
「鷹」
「うそ! え、え? 本当に?」
馨民の動揺は激しい。本当に一言も悠穂から聞いていないらしい。驚いて当然だと忒畝は思う。鷹は忒畝より十五歳も年上だ。
「本当。いつの間にって……僕も驚いた」
忒畝は苦笑いしている。忒畝の心境は『父親』に近いのかもしれない。
鷹は克主研究所の食堂を担っている料理長。長身で体格もよく、『鬼の料理長』と呼ばれている。豪快に鍋を振るように、性格も豪快な人物だ。
ただし、料理に対する愛情は深い。飽きさせないメニューと、栄養バランスと経費を考え、季節に合う料理を提供してくれる。調理器具や調理場の清掃にも抜かりはない。
克主研究所では二十四時間、いつでも日替わりメニューから選んで食事ができる。固定の時間を予め指定して用意してくれるサービスも受け付けてくれる。
これは前君主、悠畝が行った改革の一部だった。食事の他、掃除や洗濯など、日常生活に欠かせない、ありとあらゆることを代行してくれる人がいる。
『研究者も料理人も、清掃の人も、同じところで働く者たちは分け隔てなく皆、平等。誰が欠けても普段通りの仕事を誰ひとりとしてできない。皆が皆に感謝をする』という考えは、悠畝の教育の賜物だ。今では、すっかり研究所内の者たちの共通認識。
まさに研究者にとっては天国の場。代行を希望すれば、研究者は『研究以外の一切をしなくても生活可能』な環境になっている。
悠穂は忒畝の助手だが、主な仕事は『見回り』に等しい。どこかで誰かが困っていないか、不便を感じていないか、体調を無理している者はいないか……などをそれとなく探り、何かあれば忒畝に報告や改善の提案を行う。
電球交換などの雑務も悠穂は積極的に行うが、それはコミュニケーションをとる手立てのひとつにすぎない。
悠穂が『君主の助手』だと、本来の立場を認識している者は少ない。君主の助手と言えば、多くの者が馨民だけだと思っているだろう。
『君主の妹は研究者ではなく、声がかけやすくて親しみやすい女の子』と周囲に解釈されていると言えば妥当なところか。忒畝は悠穂に『普通の女の子』でいてほしかったし、当の本人もそれでいいとしている。自由にどこにでも出入りができて、色んな知識も入れられるから──と言うが、それでは根っから研究者の忒畝と変わらない。
悠穂の状況を考えれば、確かに研究所内で誰とでも親しくなり、誰かと恋をしてもおかしくはなかった。




