【8】何もなければ(1)
「いや」
沙稀には、羅凍をおかしいとは言えない。だからと言って、同じだとも、似たように思ったことがあるとも、言える勇気もない。
「どんな子だったの?」
沙稀は羅凍に忘れろとも言えず、想い人について聞く。
「ん~、そうだなぁ。勝気な子……かなぁ。でもなぁ、あの性格になったのは俺が告白してからだったしなあ……」
哀萩は羅凍が六歳のときに、引き取られたと言っていた。いなくなったのは、羅凍たちの結婚が決まった当日。かれこれ、四ヶ月は会っていないことになる。
沙稀はたった数時間、恭良と離れただけで苦しくなった。もう丸一日会っていないと思えば、すぐにでも会いたくなるほどで。四ヶ月も離れるなど、想像を絶する。
「やさしい子だった。いつも俺のことを理解してくれようとして。勝気になったのは、きっと、俺と喧嘩友達みたいな関係になろうとしたのかって、今に、なって……」
途中で聞こえなくなった声は、深い悲しみを嘆いているようだった。悩み抜いて出した過去の行動を否定しているようにも思えて。
受け止めないといけない過去に、羅凍が苦しんでいる。沙稀は羅凍の気持ちを想像するだけで、いたたまれなかった。
振り返れば時間が流れるのは、早いものだと沙稀は思った。今は、帰りの船。バルコニーで風にあたっている。
昨夜、沙稀は偶然にも凪裟と再会をした。跡継ぎの妃となったにも関わらず、凪裟はドレスを着ていなかった。
羅暁城にも宮城研究施設がある。凪裟の性格からして、引き続き宮城研究施設を担うようになったのか。そうであれば、鴻嫗城にいたころと変わらない服装の方が自然だと思い直す。
再会を喜ぶ会話が終わると、凪裟は『玄が羨ましい』と呟いていた。結婚の前に受けたと言っていたブライダルチェックの結果は、聞くことではないと沙稀は発言にしなかった。だが、『もし』と思えば、聞けなくもなることで。
──何もなければいいな。
『玄が羨ましい』──ポツリと凪裟から落ちた一言が、どうも引っかかる。
沙稀は上着から香水を出し、見つめる。行きの船の中で考えていた瑠既への土産だ。昨日の夕食後、羅凍に買い物に行きたいと沙稀が言ってみると、軽い足で城下町を案内してくれた。
「抜け出すのなんて、久しぶりだ」
羅凍は笑っていたが、沙稀は失笑してしまった。次いで羅凍が苦笑いに変わり、貴族としてあるまじき行為だと気づいたようだった。
けれど、また次の瞬間には、羅凍らしい笑顔が見られた。
「ははっ」
沙稀は思い出し笑いをして──すぐさま笑いをこらえる。おそるおそる周囲の様子を横目で見ると、幸い近くに人はいない。
ふうっと一息つき、浮かれていたと恥じる。
一先ず、この土産で瑠既が気づけば、誄との仲は心配しなくていいだろうと、思いを託す。
そうして、沙稀は視界に誰も入れないようにしながらバルコニーをあとにした。
船を乗り換え、昼食を食べていても。取った部屋へ行ってみていても。沙稀は羅凍の辛そうな様子がチラチラと思い浮かんだ。昨夜別れたときも、今朝見送ってくれたときも元気そうだったのに、思い浮かぶ。
梓維大陸に着いてからは、行きの船の時間が嘘かのように、あっという間に時間が過ぎた。羅凍のお蔭だったと、沙稀は改めて感謝する。
ひとりになって何度も思い出してしまうのは、羅凍の吐露した内容が他人事に思えなかったせいだ。浮かんでは消え、消えては浮かぶ。あれは、まるで沙稀が抱えていた思いを、羅凍が代弁しているようだった。そう──恭良を諦めるために、沙稀が言い訳にしてきた言葉たちに似ていた。
『妹をよろしくね、かわいがってね』
沙稀が幼いころに、確かに聞いた母の言葉。この言葉を、未だに消化できずにいる。
沙稀は恭良に対する想いに気づいたとき、同時に強い罪悪感を抱いた。なぜかと自問自答し、当時は王を憎んでいるせいだと思っていた。
恭良と結ばれ、沙稀は想像しなかったほどの幸せに包まれ、苦しみから解放されたと思っていた。だが、行きの船の中で過去に蝕まれ、崩れそうな心と向き合った。そうして、恐怖を感じた。手にした幸せを、失う恐怖を。
沙稀は、何度も『恭良がすべてだ』と想いを言葉にしてきた。決して、軽んじていたつもりはない。
だからこそ、だ。『恭良がすべて』であるからこそ、恐怖心もいつの間にか育っていた。
愛しい想いが、深いところで罪の意識と絡み合っている。太い木に複雑に絡んだ蔦のように。
初めて恭良に会った赤ん坊のときから、沙稀が母とともに『妹』をかわいがったのは、約一年間。その様子がしっかりと刻み込まれているのは、根の奥底。
髪も瞳もクロッカスだった。間違いない。恭良も、沙稀も。あの一年間は、間違いなく『兄と妹だった』。
恭良のクロッカスの髪と瞳が、母を連想させた思春期。失ったクロッカスの色彩は、羨望へと変わっていった。
リラの髪と瞳を受け入れるように沙稀は父、唏劉の子であればいいと、母とのやさしい思い出を封印して過ごしてきた。
そのころだ。同時に『恭良とは兄と妹だ』と何度も言い聞かせて過ごしたのは。恭良への想いも同時に封じようとした。それは、青年期になっても続き。想いがあふれそうになる度に、言い聞かせて想いを何とか沈めてきていた。だからこそ、恭良には、余計に素性を明かせなくなっていった。いくら想いを告げないと決めても、『兄』と認識されるのは耐えがたい。
恭良と婚約して、言い訳にしてきたことが残っていた。考え始めてしまった。大臣に素性を恭良に話すと言われ、抱えきれなった。それで、意としない言葉がもれて──吐き出した。
それなのに。
──大臣は……俺の質問にはっきりとは答えなかった。




