【3】何に変えても(2)
「大臣、俺も手伝うよ」
姿を表したのは、軽装備を身に着けた沙稀。剣士たちの稽古をつけ、シャワーを浴びてきたのだろう。もしかしたら、もう一戦交えるつもりかもしれない。
「貴男も忙しいでしょう。無理はいけません」
この仕事量は自業自得だと言ったのに、
「ここを継いだのは、俺でしょう?」
と、おだやかに笑い声を混ぜて沙稀が言う。
「いつまでも大臣に甘えていられないよ」
沙稀は大臣のとなりに座る。そして、積み重なっている書類をめくり、切りのいいところで一束を取る。いつの間に大臣の業務を盗み見て覚えていたのか、流れるように作業し始めた。
呆気にとられて、大臣は何も言えない。けれど、呆然とその様子を見ていれば、いつもどこかを張り詰めていた沙稀が、ごく自然な表情を浮かべている。
「沙稀様は……おだやかになられましたね」
大臣の声に、沙稀はピタリと手を止めた。
「まるで……あのころのまま、成長されたようです」
大臣は胸が熱くなる。
沙稀は大臣の声が震えて聞こえ、顔を上げてもいいものかと迷う。間をあけても、大臣に業務を再開する気配はない。
大臣らしくない様子に、沙稀は顔を上げる。
「大臣」
『後悔しているのか』と言おうとした沙稀の言葉は、どこかへ飛んでいく。一目見て、後悔しているのだと読み取れてしまったから。
大臣はうっすらと涙を浮かべている。
沙稀にとっては、幼いころから大きく感じていた存在だ。大臣がしぼんで見えたことだろう。気まずくなったのか、沙稀は大臣から視線を逸らす。
「私を恨み……憎しんだことも、あったでしょう」
声を震わせながらも、大臣らしい力強い声が発せられる。更に、悲痛な声は出る。
「辛かった……ですね」
それは、沙稀に過去を詫びているようで。
大臣は、沙稀が生まれたときからそばにいた。瑠既が誄と婚約したときは、とても驚いていたし、慌てていたし、沙稀が後継者と紗如に指名されたときは、その重荷を心配してくれたものだ。寒いと言えば上着をすぐに持ってきたし、暑いと言えばいくらでも扇いでくれた。
沙稀が意識を失い、目が覚めて。沙稀からすれば、散々な目に遭った。思い出したくもないことばかりで、思い出したくもない感情で。けれど、沙稀はその過去があるからこそ、今があると思っている。恨んだことはないと言えば嘘になるが、『もういい』と言えば大臣は気が済むのだろうか。いや、それでは足らない。沙稀が苦しんでいたあの期間は、恐らく大臣も苦しんだ。だから──。
「それ、今生の別れみたいに聞こえるんだけど」
沙稀は至って通常稼働で返し、業務を再開する。それなのに、大臣はいつになく心情を出してしまう。
「いいえ、肩の荷が降りたのです」
「そう。それなら、労わってあげないとね」
沙稀が楽しそうに笑う。
その笑みを見て、大臣はうれしくなる。そうして、大臣も業務に戻りつつ、いつの間にこの業務を覚えたのかと沙稀に聞くが、弟子は師匠の技を盗むものだと明確な答えは返ってこなかった。そこへ、
「鐙鷃城の話は聞いた。恭良は、誄姫と宮城研究施設に行っている」
なぜか瑠既も同行しているけどと、何とも不満そうだ。
「そうですか。瑠既様も……」
宮城研究施設は地下にある。以前、瑠既と地下に向ったとき、苦手そうにしていた。沙稀は、どうだろうか。
「沙稀様も……地下は苦手ですか?」
「別に」
つれない返答に、そういえば、懐迂の儀式のときにも地下だったと思い直す。すると、
「どうしたの?」
と、逆に心配をされてしまった。大臣の眉が下がる。
「色々ありましたからね」
「大丈夫だよ、もう」
大臣を安心させるような、やさしい言い方。思わず顔がほころぶ。──それを沙稀は横目で見ていたようで、笑いが混じる声が聞こえてきた。
「大臣も、おだやかになったんじゃない?」
そう言っている沙稀の方が、何ともおだやかで──。
「私の心は、貴男と比例するようです」
しんみりと言った大臣の言葉は、沙稀にとって意外なものだったのだろう。目を見開いて大臣を見ている。
「貴男が、瑠既様が、恭良様が……幼いころから見ているあなた方が、笑って幸せに過ごしていてくれれば、私は幸せなんです」
沙稀は大臣をちいさく感じた理由がわかった気がした。珍しく感傷的なせいだ。
「大臣も、年を取ったんだね」
「それは否めませんね」
「長生きしてね」
サラリと沙稀が言った労わりの言葉に、大臣の瞳は一気に潤いを増す。大臣は涙を落とすまいと、必死になる。
「そうかんたんには、死ねません」
「大臣は致命傷を深く負っても、死ななさそうだよね」
「悪運が強いんですか?」
「それは、俺も同じかも」
沙稀が無邪気に笑っている。こんな沙稀を見たのはいつ以来か。大臣は、心から笑える日がきたことに感謝をした。
「どうして俺がひとりで行くんだ?」
「いえ、途中まで誄姫とご同行願いたいのですが」
あんなにおだやかになった沙稀が、ほんの数時間でどうしたことか。夕飯が終わるころを見計らって大臣は食事の場へ顔を出し、沙稀に声をかけた。大臣がよかれと思って告げた提案に、沙稀は納得がいかない様子。
大臣は、沙稀と羅凍が親しいと知っていた。互いに結婚をしてからも友人関係が良好に続けばと大臣は願い、羅凍に会いに行ってはどうかと提案したのだが。沙稀は瑠既と違い、幼いころからひとりで行動するのは、得意なはず。
「これまで誄姫が城を出なかったフォローはする。だけど、どうして俺が恭良と離れなきゃいけないわけ?」
不機嫌になった理由がそれかと、大臣は思わず笑ってしまう。だが、沙稀は大臣の反応に増々眉をひそめる。
大臣は慌てて笑いをこらえ、悪気はないと言うかのように弁明する。
「申し訳ありません。往復で四日間ですが……恭良様とまったく会えない日は、二日間ですよ?」
具体的な日数を言っても、沙稀の機嫌は直らない。口を開こうとせず、ただ視線を逸らしてため息をつく。呆れたような反応に、大臣は思ってもいなかったことを気づく。今度は大臣がため息をついた。
「ああ、そうですね。一日として離れたことがなかったですね」
そうしたのは誰だ? という視線が沙稀から大臣へと投げられる。それには、何も大臣は言い返せない。大臣が、沙稀を恭良の護衛に指名したのだから。
沙稀は恭良の護衛に就く前、よく戦地に赴いていた。だが、争いがなくなってから恭良の護衛になり、それからは姫と離れた土地へは行っていない。かれこれ七年間、恭良の護衛を沙稀はし、行動をともにしていた。
護衛を解任された日に婚約。それからは尚更、一緒にいて、結婚してまだ一ヶ月余り。とはいえ、婚約してからは一緒にいる空間の密度はどんどん濃くなっていることだろう。
「過度にいすぎるのも、よくありませんね。そうですね……多少は離れる訓練も必要かもしれませんよ? どうですか、沙稀様。訓練だと思えば丸二日間など、容易いでしょう?」
大臣は沙稀の自尊心に呼びかける。
こう言われたら沙稀は挑むしかない。ゆっくりと息を吐き出し、悔しそうに返す。
「わかった。その訓練、受ければいいんでしょう」
大臣は幼子に向けるような、やさしい笑みを返す。沙稀は怪訝そうな雰囲気のまま、どこかへと行ってしまった。




