【3】何に変えても(1)
瑠既の婚礼の翌日、来客の見送りも終わって大臣は胸をなで下ろす。沙稀と恭良が一連の儀式から解放された当日はどうなることかと頭を抱えていたが、あんな珍事は朝食のときだけだった。懐迂という常識外れな儀式を終え、挙式のあとにまたもや常識ではあり得ないような期間を過ごしていた。そう考えれば、あの珍事も致し方なく、かえって儀式づくしのあとすぐに公務に戻り、兄の挙式に参列し。更には来客を迎え応対し、ていねいに見送っているのだから、よく務めているというべきか。
何にしても、無事に子宝に恵まれていることを願うだけだ。恭良の体調を考慮して、日程を決めたのだから。後継者が生まれなければ、城は存続していかない。
──長かった。
大臣は長く深いため息をつき、空を高く見上げる。──初めて鴻嫗城に来たときのことを思い出す。当時は二十五歳だった。そう、瑠既と沙稀と、同じ年齢だった。
鴻嫗城を大臣が訪れたのは、長年の縁を切るため。沸々と湧き上がる怒りを鎮めながら、決別を告げると覚悟をして来た。──はずだった。
気づけば鴻嫗城で歳月を刻んできた。当時を思い出せば、ただただ空しい。懐かしいと振り返れるものではない。己の名を、過去を、人生を、すべてを消した。迷いがなかったかと言えば、嘘になる。家族を傷付けた。その上、裏切りでもあっただろう。唏劉を己の中で消し去るために己を消したのに、そう生きてきたのに、未だにそれができない。いつまでも、鮮明に、唏劉のことを覚えている。
決して切り離せないと生きてきた二十五年間を捨て、鴻嫗城を選んでしまった。留のお陰だが、紗如のせいだ。唏劉には、何と言われることか。いや、何かを言ってくれるのか。『世良』と名乗っていると知れば、笑ってくれるのか。
『世良』は大臣にとっては仮名だ。愛着はないが、名がなければ不便で。留に言われて、咄嗟に口から出てしまった仮の名。本当は好きではないし、当時はやっと手放せたと思っていたし、もう、使わなくていい名だと思っていた。
『世良』は紗如の夫となる予定だった、あの王の名だ。留が亡くなり、数年が経って。仮名と同じ名の男をあえて呼んだのは、大臣だ。鴻嫗城は姫が主体。だから、この男は紗如に従うだろうと見込んでいたし、最悪、大臣は力でねじ伏せることも考えていた。誤算は──この男の性根が腐っていたことだった。性格もネチネチとしていて、しつこい。素性意外にも、もっと調べてから呼べばよかったと思っていたら、
「ほう……貴様も『世良』と言ったか。これは、おもしろい」
と、何かにつけて大臣を仮名で呼び付けるようになる。紗如の体調不良が増して、思うように会えなければ、その矛先は大臣へと向き。紗如が亡くなって──生家を知られて、涼舞城は奇襲をかけられた。
王の策略だ。鴻嫗城を、奪うための。大臣は、それに気づけなかった。
七歳の瑠既が寝間着で裸足のまま裏門にいたあの日。大臣は、王を選出した判断が誤りだったと、その清算しようとした。瑠既を見送ったあと、王の間へと向い剣を向ける。
すると、王はいい気味だと笑うように、大臣をあざけ笑った。
「涼舞城はまもなく堕ちる。お前は、すべてを失う」
その言葉を聞いて、大臣は笑い返してやりたくなった。お前は何もわかっていないと。大臣が涼舞城に向かったのは、身勝手な思いで生家を守りたかったわけではない。むしろ、大臣からすれば、とうの昔に捨てたと笑ってやりたかった。
涼舞城の援護を行い目途が立った矢先、大臣は王の策略に気づいた。あと一歩で涼舞城は救えたが、そのあと一歩が及ばないところで大臣は鴻嫗城を選び戻ってきた。身勝手な思いであったのなら、大臣はまだ涼舞城にいただろう。
大臣は王をこのまま生かそうと思った。何も知られてはいないと安堵をして。名を捨てる前の過去など、どうでもいい。ただ、鴻嫗城をここまで好きにされ、はいそうですかとは許せない。だからこそ、大臣はこれから目の前のこの男を、好きに利用しようと考えた。
幸い、恭良がいる。瑠既も沙稀もまだ七歳で、仮に行方不明と意識喪失になっていなくても、鴻嫗城を継げずに八方塞がりだった。だから──『王』だと偽りの公表をしたのに目をつぶった。鴻嫗城に泥を塗ったが、これしか鴻嫗城を存続させていけなかった。
双子が行方不明と意識喪失になってしまったことを逆手にとり、事態が好転したわけだ。
けれど、大臣は王の策略にきちんと気づけていたなら、と長年苦しんだ。瑠既の行方を思い、何度も涙した。意識の戻らぬ沙稀を前に、どれほど泣いたかわからない。とにかく必死で、あっという間に時が過ぎていった。
ただ、もう、ようやく解放されたと思っていいだろう。紗如の決めた後継者が、きちんと鴻嫗城を継いだのだから。
──やっと、終わった。
名を戻すことは許されないが、紗如との約束を守ることができた。犯した罪は、名とともに闇に隠してあの世に持っていけばいいと、大臣はゆっくりと呼吸をする。
目には唏劉の最期の姿が焼き付いている。耳には、見捨てた涼舞城の者たちの悲鳴がこびり付いている。胸の奥底には──決して口外できないことばかりだ。
この先、己の行く末を思い描けば、華やぐような場所は広がらず。だが、恐れることはない。それが、当然の報いだと心得ている。
深呼吸を終えると大臣は職務へと戻っていく。鴻嫗城の大臣、『世良』に戻るように。
大臣は黙々と業務に取りかかっていた。鴻嫗城の業務は最高位の城だけあって多いが、手の離れたことも多く、苦ではない。誰かと業務分担を考えたこともあるが、王のときの二の舞は踏みたくないと思えば、必然的に他人は入れられなくなる。大臣は人を見る目があるとは思っていない。抱え込む方が楽なのだ。
ふと、扉がカチャリと開いた。




