【1】彫琢
その姫は『偽り』の姫になった。高貴な者のみが持ち得るクロッカスの色彩を持ちながら。ただし、彼女の心は彼女の愛した人物によって守られていた。『クロッカスの色彩を失った後継者』によって。
無事に懐迂の儀式を終え、婚礼を終えたふたりは、その後三日間をふたりだけで過ごす。懐迂の儀式を終えた者たちの、後継者を早く迎え入れるための儀式に取りかかる。
婿入りした者は、その身をまるで生贄のように差し出し、初めての契りを結ぶ。鴻嫗城の姫がこの世で最高位だと、身に刻み込むわけだ。
それは鴻嫗城の姫として育った恭良も承知していたこと。けれど、沙稀の出生を知ったとき、彼女の中で根底が覆りさまよった。
そんな彼女を目の前にして、沙稀は告げた。誰が、何と言おうと、鴻嫗城の『姫』は恭良なのだ、と。
彼女は、その言葉で崩れずに済んだ。
彼は、その後も彼女を『鴻嫗城の姫』として認め続け、彼は結婚しても尚、彼女を『鴻嫗城の姫』として敬意を払うと決めていた。
彼女の生き方を肯定して、尊重するために。
クロッカスの色の髪が、リラの色の瞳の前で垂れて、揺れる。
これが彼の彼女に対する忠誠の証だ。これからも『鴻嫗城の姫』は、確かに『彼女』だと示す。
彼は幸せだった。彼女が彼女らしくいてくれていて。
長年想いを寄せた人と結ばれたのは、夢のようで。こんな幸せは存在しないと思っていた。
その日の夜、彼女は口移しで彼に食事をあげていた。──まさに、彼女の我が儘放題。彼はされるがままを容認している。
初めは野菜。そして、魚。そうしてついに、ちいさなブロックの肉をフォークで刺し、彼女は口に入れた。
彼女は、彼の『食べられない物』を知っている。だから、彼は『まさか』と思う。彼の体は、いつのころからか肉を受け付けない。彼は青ざめた──が、彼女は青ざめた彼に気づかないかのようにかわいらしく口づけをして、おぞましい物を彼の口の中に入れる。
そして、耳元でそっと囁いた。
その囁きに、彼はしっかりと飲み込む。
彼としては、驚愕の出来事だが、驚いたのはそのあと。──体が拒否反応を示さないということだった。
そんな様子の彼に、彼女はうれしそうに彼の頭をなでた。まるで、嫌いな物を食べたちいさい子どもをあやすように。
ドキドキと妙な胸の高鳴りを沙稀が覚える。けれど、無邪気ににこにことする恭良が、彼にそんないたずらをしたのはこの一回切りで。
沙稀が『彼女には敵わない』と思っていると、スルリと彼女はベッドから離れ、ある物を持ってきた。それは、彼女が出生を知って揺れてからしばらく経った後、言っていた物。
「ずっとしたかったことがあるんだけど……」
「何?」
寝る前に声をかけられて、ベッドの上から返事をした。恭良は一メートルほど離れて立ち止まっている。
「あのね……」
いつになく、ぎこちない様子にどうしたものかと思っていたら、恭良は上目遣いで沙稀をジッと見た。なぜかとてつもなく照れている恭良に、鼓動が高鳴る。
沙稀の様子もぎこちなくなったのだろうか。恭良は視線を伏せた。そうして、見せるのを戸惑うかのように、ある物を持った右腕を後ろからおずおずと出す。──それは、幅広の白い一本のリボン。
「リボン……着けてもいい?」
何をそこまで恥ずかしがるのだろう。沙稀は照れながら笑っていた。
「いいよ」
いいと返事をしたのに、恭良は近づいてくる気配がない。だから、沙稀はベッドから出て、恭良の前で背中を向けた。
「きれい」
サラサラと恭良がリラの髪に触れる。恭良が見ていて、触れているのだと思えば、ちょっとどころではなく恥ずかしい。
「私、沙稀の髪の毛が大好き」
髪の毛の色がコンプレックスの沙稀にとっては、意外な言葉だった。動揺し、振り返りそうになる。
「あ、まだっ……ちょっと、待ってね」
大切な物を抱き締めるように頬をあてていた彼女は、大きく動いたことに慌てていた。沙稀は急いで動きを止める。
沙稀には、意外なその言葉がじんわりとしみ渡っていく。何年も、それこそ十年以上も耐え忍んで喪失感を覚えた色を、彼女が『大好き』と言ってくれたと。恭良は知ったはずだ。沙稀が紗如の息子だと。その上で、リラの色を『大好き』だと肯定してくれたと、喜びであふれそうになる。
恭良の方は、魅了されていたリラの髪の毛に、白いリボンを巻いた。大きく蝶蝶結びをして、うれしそうに眺める。
「いい?」
「うん」
弾む声に振り返ると、そこには満足そうな恭良がいる。沙稀は我慢しきれずに抱き締めた。
そのとき、恭良が呟く。
「ねぇ、知ってる? 赤いリボンを……が着けると……」
耳元で言われたにも関わらず、所々は微かにしか聞こえなかった。だが、その言葉に驚き、彼は彼女の瞳を疑うように見る。
一方の彼女は、ただ彼を見つめていた。
「今度は赤いリボンを……着けても、いい?」
彼女には妖艶さが漂っていた。初めて見るような彼女に戸惑っていると、恭良はふと視線を外した。
「やっぱり、駄目だよね? 赤いリボンなんて。男の人に着けるものじゃないし……」
眉を下げて言う恭良は、確かに『いつもの』恭良だった。リボンを着ける前の、照れて慌てたような。
沙稀は幻覚を見たような気がして、おかしいと気がゆるむ。
「いいよ」
「え?」
彼女は驚いたように彼を見た。
──後悔はない、何も。
彼は幸せそうに笑うと、大切そうに彼女を抱き締めた。
「いいよ」
──ただ、望むことはひとつある。
──もし……。
耳元で声を低くして言う彼に対し、彼女はギュッとくっつく。
「うんっ。じゃあ、今度!」
「今でもいいよ?」
──もし、この罪の意識が真実ならば……。
艶めかしい声を出し、彼の唇が彼女の耳たぶに触れる。──しかし、彼女は彼に照れるでもなく、細かく首を横に振った。首に頬をすり寄せ、ひるんだ彼の頬に両手をあてると、大きな瞳で彼を呑み込む。
「今度でいいの。それに……そのときに嫌だったら、ちゃんと言って?」
沙稀には、なぜか彼女が悲しそうに見えた。だから、彼はやさしく告げる。
「俺が『嫌だ』って、言うと思う?」
──どうか、この罪は独りで背負わせてほしい。
彼女の両手からすり抜け、耳の後ろにそっと唇をあてて抱き締め直す。
「恭良の好きに、何でもしていいよ」
──誰にも、気づかれないままでいてほしい。
長年、彼女に捧げてきた忠誠心は揺るがない。彼女の笑顔が見たいと彼はいつでも望み、行動をする。
スルリとベッドから離れた彼女が手にしていた物は、あの日に話していた物だ。
「着けても……いい?」
──あなたを守ると決意したことに、後悔はない。
それは、幅広の赤いリボン。
「どうぞ」
──あなたは太陽だ。燦々と光を降り注いでいてくれる。
彼は照れを隠せず、口元がゆるんでいると自覚する。
「本当に?」
──あなたがいなくては……。
聞き返す彼女はどこか不安そうに、戸惑っているように彼には見えた。だから、彼は彼女に手を伸ばす。すると、彼女は悲しげに歩いてきて、ベッドの前で立ち止まる。
白く薄手の頼りないレースで華奢な体を包んでいるのに、右手にはしっかりとした生地の真っ赤なリボン。その差に彼女への愛おしさが募り、彼は抱き締めて頬を合わす。彼女の体温を感じながら、もう結ばれたと思えば夢心地で──食事をねだるように長い口づけをする。
「好きにして?」
──光を感じることなど……。
言葉とは裏腹に、彼女を押し倒す。見下ろせばクロッカスの色が彼女を起点に広がり、そこへリラの長い髪が雨のように落ちている。
彼女はクロッカスよりも淡い紫の、彼の長い髪に視線を移す。サラサラと触れ、右手側に髪をまとめていく。そして、沙稀の視界に入る位置で、赤いリボンを巻き、大きな蝶蝶結びを作った。
「うれしい」
──あり得るだろうか。
彼女の声はどこかしんみりとしていた。
本当にうれしいとき、人はしんみりと言うものなのかもしれないと彼は思い、彼女をそのまま包み込む。
──後悔はない。
──たとえ、神に逆らう行為だとしても。




